前島密と郷純造 和彦雑記(4)
明治42年7月発行の「実業之日本社」に大隈重信の記事が掲載されていま す。前回「渋沢栄一と郷純造」で記述のように、郷純造が大隈重信に渋沢栄一と同様、前島密(ひそか)を推薦した記事です。(下図参照)
人物叢書・前島密の中で著者山崎修氏は次のように記述しています。
「五.維新の変動に処し」渋沢栄一(105頁)
『渋沢栄一(1841~1931)が租税正(そぜいのかみ)として迎えられたのも、その一例であった。渋沢の採用を勧めたのは、民部大蔵小丞の郷純造である。ついで郷は、前島を推挙した。
のちに大隈は「郷と云う男は金を溜めるの(に)才はあったが、最もあの男にエライとして伝うべきは、前島、渋沢二翁を明治政府に推薦した一事である」と語っている(「逸事録」)。
こののちも郷は政府の財政を担当し、その功績をもって明治33年には男爵
を授けられた。純造の子が、実業界に活躍した誠之助である(中略)』。
人物叢書 前島 密 平成2年5月1日発行
著者:山口 修
編集者:日本歴史学会 代表者:児玉幸多 発行者:吉川圭三
発行所:(株)吉川弘文館
前島密は天保6年(1835)~大正8年(1919)越後国中頸城群下池部村(現
新潟県上越市)の上野家の二男に生まれる。
・同13年、8歳の時母とともに糸魚川に移り、叔父の藩医相沢文仲の養子となる。医学の基礎を学ぶ。
・弘化4年(1847)13歳でオランダ医学を習得のため江戸へ出る。
・15歳の時叔父相沢文仲死去のため上野氏に復籍。苦学を続ける。
・安政元年(1854)20歳の時、前年ペルー来航を視て、国防の策を立て、九州、四国、関西の各地を巡歴し、海岸線を視察。
・同6年25歳、航海学実習生として函館丸に乗組み日本沿海を一周する。
・元治元年(1864)29歳、紀州藩の嘱に応じ、明光丸機関士長として和歌浦に往復する。
・慶応2年(1866)31歳、幕府の吏、前島錠次郎の家を嗣ぐ。名を来輔。
・同3年、開成所(東京大学の前身)の数学教授に任ず。
・同4年、大久保利通の「大阪遷都論」に対し「江戸遷都」を献言。
・明治元年(1868)駿河藩公用人となる。
・同2年、遠州中泉奉行となる。この頃名を密と改名。
・同3年1月5日、民部(大蔵)省に出仕し改正掛に勤務。駅逓権正を任じ従七位。新式郵便の制度を立案。6月、杉浦譲駅逓権正に就任する。
・同20年(53歳)東京専門学校(早稲田大学の前身)校長に就任。
・同21年、逓信次官に就任。
・同35年、男爵を授けられ華族に列する。
・大正5年7月1日、逓信省構内に寿造が建立され除幕式が行われる。
・同8年(1919)4月27日、芦名別邸(横須賀市)にて死去。享年85歳
以上は、前島密(自叙伝)著者:前島密 発行者:高野義夫
(株)日本図書センター発行 1997年6月25日を参考にしました。
※下図は明治中頃の、郵便発祥の地「日本橋」の風景です。
「郵便発祥の地」として、日本橋郵便局の地に前島密の銅像が鎮座しているのはつとに有名です。
時の郵政大臣迫水久常(第17代)が郵便創始90周年を記念して建立された銅像で、昭和36年7月18日とあり、
・日本橋会・前島会・日本郵便協力会 昭和37年4月20日と刻してある。
※銅像の写真(下図)は、先日上京した際に撮影したものです。
一円切手と言えば前島密の肖像画が定番です。今もなお頑なにそれを押し通しつづける郵便局には頭が下がる思いです。
又前島密の創建の精神が連綿とつづき、それらが垣間見える思いもします。
※下図切手説明(左より)
・15銭:昭和21年(1946)、第一次新昭和21
・30銭:昭和21年発売、郵便創始75周年(銅像)
・1.00円:昭和25年(1950)、第一次動植物園宝シリーズ
・10円:昭和36年(1961)発売
・1円:平成27年(2015)現在発売中
以上はブログ、「hokutoのきまぐれ散歩」を参考にしました。
孝子伝説の里「養老」切手帳 昭和60年
前島密生誕150年を記念して作成されたものです。
・40円:慶事用折鶴切手 昭和58年11月22日(いい夫婦)
・60円:前島密生誕150年記念切手 昭和60年6月5日発行