名古屋名所案内図・各所抜粋「旅枕」(15)
名所案内図の沿革
・発行日:明治42年4月18日
・著作者兼発行者:小高安太郎
名古屋市中区裏門前町一丁目483
・発行所:文高堂 仝上
・印刷所:中川石版所
名古屋市中区門前町七ツ寺219番戸
※前回(14)網羅できなかった名所を紹介しておきます。
・愛知県庁・商業会議所・名古屋郵便電信局・電気鉄道(市電)
・御園座・大須観音・熱田海岸・建中寺&若宮八幡社
・名古屋停車場&愛知停車場
清サンが訪れたと思われる名所を転載しました。
明治33年(1900)4月1日南武平町に移転された県庁の絵図であり、南久屋町から移転した庁舎です。
この庁舎は昭和13年(1938)4月11日に現在の庁舎に移るまで使用された。
※尚以下の説明も、
・愛知県の歴史 編集責任 林 英夫 1987年初版
・愛知千年企業 北見昌朗著 2013年初版
・愛知県の歴史散歩(上・下)を参考にしました。
※次回は美濃国 谷汲山・華厳寺をお送りする予定です。
明治23年(1890)名古屋商業会議所は設立された。
その後昭和3年(1928)名古屋商工会議所に組織変更された。
尚、初代の会頭は伊藤祐昌で明治14年~明治18年の4年間の在職だった。
又、伊藤氏はいとう呉服店(後の松坂屋、現・大丸松坂屋百貨店)のオーナーであった。
明治31年(1898)、名古屋電鉄の市電が走った。笹島~県庁前の4区間が開通した。京都に次いで日本で二番目となる。
「広小路を歩けば、電車が通る!チンチン御園か柳橋か!ステンションか!!」と、当時唄われた。
御園座は明治30年(1897)5月17日開場した。
杮葺落(こけらおとし)興行は、初代・市川左団次(1842~1904)一座の役者が勢揃いし、入場できないお客さんで会場前には大勢の人だかりができ、大盛況だった。
御園座の創立者・長谷川太兵衛は「名古屋にも東西に負けない一流の劇場を」という強い信念で創った。
当時として御園座はモダンな建物で、近在近郷から人々が集まり垂涎の的だった。
尚、名古屋には:・千歳座(南桑名町)・新守座(本重町)
・音羽座(南伏見町)・室生座(大須)
・末広座(末広町)等があった。
大須観音は北野山真福寺(真言宗)宝生院という。創建の地名から大須観音と呼ばれている。
幾多の変遷を経て、慶長17年(1612)徳川家康は犬山城主・成瀬正成に命じて洪水の恐れの無い、現在地に移した。
浅草観音(東京都)、津観音(三重県)と並んで、日本三大観音の一つとも言われる。
名古屋港の前身で、熱田海岸の沖合は遠浅で大型船の入港を阻む要因となっていた。
この絵図の翌年、すなわち明治43年(1910)に名古屋港の第一期工事が完了し、3000トン級の船舶が10隻まで停泊出来るようになった。
8.建中寺(けんちゅうじ・浄土宗)は尾張徳川家の菩提寺である。
慶安4年(1651)2代藩主徳川光友が父・義直を弔うため創建した。
天明5年(1785)の大火でほとんどが焼失したが、総門と三門のみが残り今に伝えている。
尚、その北には名刹・蓬莱山(ほうらいさん)徳源寺(臨済宗)がある。
徳源寺は織田信長の第2子信雄(のぶかつ)の創建である。
9.若宮八幡社は仁徳天皇、応神天皇、武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)を祀る。
天文8年(1539)織田信長の父・信秀により再建された。その後、徳川家康が名古屋城築城の折り現在地に移し、城下名古屋の総鎮守とした。
現在北側を走る通称100m道路の名称若宮大通は,
ここ若宮八幡社から採っている。
10.名古屋停車場は明治19年(1886)突貫工事により開業した。
当時は笹島ステンションと呼ばれていた。
明治25年(1892)前年の濃尾大震災で倒壊した初代の駅舎に代わり2代目の駅舎(絵図)が完成した。
11.愛知停車場は明治29年(1896)名古屋停車場のすぐ南方に建設された。しかし、鉄道国有法により関西鉄道が国有化されたことにより明治42年(1909)廃止された。
愛知停車場(絵図・左)は時計台もあり、洋館造りの瀟洒な建物で名古屋停車場より立派なものであった。
わずか13年間存在したが、大正2年(1913)7月より岐阜駅の駅舎として再築され、太平洋戦争の空爆で焼失するまで使用された。