名古屋東陽館と金城「旅枕」(14)
明治30年(1897)東陽館は娯楽の施設として、名古屋市東陽町に開設され
た料理旅館である。創建者は美濃国で生まれた山田才吉と云う実業家である。
明治32年春、清サンは、一泊二日の予定で東陽館と金城(名古屋城)の観光に出た。今回は初めて家内の登美(46)との旅行である。
岐阜駅発午前6:07⇒名古屋駅着7:22(下等料金:19銭)
駅から東陽館まで一里(≒4㌔)の道程を徒歩で約一時間。
途中で若宮八幡社を参拝した。
遠くから観下す東陽館の姿は寺院と見紛うほどの大きな建物だ。門の前に立ち見上げると茅葺屋根の鬼瓦や切妻破風の壮大さに驚いた。
二人は、唐風屋根の玄関から今日宿泊する奥の部屋へと通された。目の前に太鼓橋を望む見晴らしの良い八畳部屋だった。
荷物を解いて館内の案内所で名古屋東陽館図(下図参照)を購入し目を通した。その広さにまた驚いた。
名古屋東陽館図
・発行日:明治32年2月1日
・著作兼発行者:鈴木冨峰
愛知県名古屋市三輪町119番戸
・印刷人:都築吉三郎
愛知県名古屋市下園町60番戸
(下園町都築石版所印刷)
1.東陽館図
・所在地:尾張国名古屋市前津小林
・館内面積:間口570尺(171m)×奥行384尺(115.2m)≒6000坪
・広間一棟:構造は御殿風檜肌、茅葺屋根二階造り、
(間口)69尺 (奥行)158尺、梁行90尺、棟高69尺
・階上:一室の広間396畳敷、其の他間口30尺×18尺の舞台あり
・階下:20室に区画、2室の畳敷き8畳及至(ないし)32畳で合計354畳
・園内小屋敷:各所に散在し総じて58室この畳敷314畳
・園内商店:料理店、鮨店、茶店、売茶店、汁子店、菓子店、雑品店
温泉諸遊戯場あり。
※以上は前図より抜粋による。
※東陽館は明治30年に開業したが、明治36年出火により閉館となる。
2.名古屋市明細地図
・出版日:明治23年2月10日
・著者兼発行者:中村浅吉
京都市下京区富小路三条下ル朝倉町27番戸
・印刷者:田中正治郎
京都市上京区寺町今出川上ル2丁目西江入北横町16番戸寄
・売捌処:小澤吉三郎
名古屋本町6丁目
※この地図は以前清サンが金城見学の折り買い求めたもの。
3.名古屋名所案内図
附愛知県管内図 築港図 里程一覧
・発行日:明治42年4月18日
・著作兼発行者:小高安太郎
名古屋市中区裏門前町1丁目483
・発行所:文高堂
名古屋市中区裏門前町1丁目483
・印刷所:中川石版所
名古屋市中区門前町七ツ寺
※本圖及び下図は清サンが後日買い求めた。
4.名古屋市街全図
・発行日:大正15年6月5日(改正5版)
・印刷兼発行者:竹内時雄
・印刷所:高田玄賞堂
名古屋市中区三輪町4番地
・発行所:名古屋図書出版同盟会
名古屋市南伏見町1丁目21番地
金城案内(下図参照) 冊子の沿革
・出版:明治25年10月17日
・著作者兼発行人:笠原保久
名古屋市北鷹匠町118番戸
・印刷人:田中有文
名古屋市伝馬町70番戸
東陽館の遊興を楽しみ一泊した二人は、金城(名古屋城)へ向かう前に熱田神宮に立ち寄り家内安全の祈願をした。早めのお昼は東海道沿いにあるうなぎの蓬莱軒でとった。家で食すうなぎとはひと味違い、二人は舌鼓を打った。
熱田神宮から凡そ1里半(≒6㌔)金城へ向かった。
「金城は確か金の鯱が有名で『尾張名古屋は城でもつ』と昔から詠われているよ!」と清サンは妻の登美に語り掛けながら歩をすすめた。昼の地酒が効いてきたのか無口な清サンは冗舌になった。
南にある二門の内本町門より城内に入り説明を聞いた。
「今から375年ほどまえ(西暦1525年)今川氏親(うじちか)が那古野(なごや)台地に築城した。その後織田信秀・信長親子で栄えたが、信長が清州城に移ってからは荒廃した。然し徳川家康は濃尾一円を治めるため、徳川御三家の一つとして城を再築した。」と係員が解りやすく話してくれた。
帰りは流石に清サンも疲れたのか駅まで半里(≒2㌔)を人力車の世話になった。
名古屋駅発午後6:00⇒岐阜駅着6:50
駅には倅の喜蔵(25)が荷馬車で出迎えてくれた。
※次回は清サンがその後訪れたと思われる名所を、
名古屋名所案内図で紹介します。
『矢場町通&東陽通りは山田才吉ストリート』
「料亭つたも」主人・深田正雄氏が呼びかけている。
詳しくはこちら>>
若宮八幡社北筋~東へ1㌔ほど(旧東陽通り)を山田才吉ストリートにしようと発信されている。小生もかつて4年ほど丸太町に住んでいた故(ホンダの裏辺り)〝トウヨウチョウ”は大変懐かしい通りである。