日本三景・松島の「旅枕」(7)
昨日塩釜港から同船した旅人に、「松島に行くなら是非瑞巌寺(ずいがんじ)を観ておくが良い。」と、色々教示を受けた。その旅人はどうやら仙台の中学の教師で、塩釜神社を観て松島へ渡り,観欗亭で人に会うのだと言っていた。今日は瑞巌寺がら見学することにした。関ヶ原の役(1600)後仙台藩主となった伊達正宗が、本堂や庫裏そして惣門を再建した。又それに先立ち仏堂として五大堂も再建された。清サンは瑞巌寺の山門をくぐった。長い杉並木の参道を心地よい風が通り過ぎた本堂の前に立った清サンはその堂々とした構えに、流石東北の雄政宗だと唸った。瑞巌寺を後にして五大堂を参り、湾岸を帆舟でたのしんだ。
つづく 次回は松嶋の「松化石」について掲載。
イ.陸前国塩釜松嶋真景全図(上図参照)明治中頃
偏輯発行兼印刷者:仙台市国分町2丁目54番地 盛光堂 蜂屋十馬
※中央下に舟着き場、その左に五大堂 右に観欗亭
その下に観月楼 右に駐在所 この裏に松化石あり
ロ.松嶋塩釜真景全図(上図参照)明治中頃
編輯兼発行又印刷者:越前国仙台市国分町89番地 盛光堂 蜂屋十馬
虎哉宗乙 臨済宗妙心寺派の僧
虎千代和尚は、享禄三年(1530)この地岐阜市下西郷,当時の美濃国方県(かたがた)郡馳郷に生れ、姓は福地氏、幼名を虎千代といった。
11才にして、揖斐川町東光寺の岐秀和尚に弟子入りし、また後に快川和尚に師事して法を問うなど、諸国をめぐって修行をつんだ。
元亀三年(1572)43才のとき、その徳名を知って東奥(とうおう)の雄、伊達輝宗の招きにより、当時6才だった政宗の師として迎えられ、その豊かな識見は禅学はもとより、治国経世の学に深く、茶道の奥義をも併せ政宗終生の手本となった。
天正14年(1586)父の菩提のため政宗が創建した覚範寺開山となったが、その後も美濃の瑞竜寺に、京都の妙心寺に、又仙台へと東奔西走の修行であり旅の生涯であった。又晩年の虎哉門には、美濃の青年僧、大愚、愚堂等の名があった。
慶長16年(1611)5月8日覚範寺で82才をもって入定。その遺言に「我屍は荼毘に付し、骨灰は水に投ずべし或は墓に封じ、或は木像を造り祖堂に案ずる勿れ・・・」とあり、このため虎哉の墓所はない。
のち朝廷から佛海慈雲禅師と贈り名された。古道場である揖斐川町(岐阜県)東光時には、大宗、岐秀両師の画像に、虎哉賛の「一得一失」が残されている。
平成元年5月12日 虎哉和尚顕彰会
以上は、岐阜市下西郷公民館の前に建つ看板に書かれている虎哉宗乙の由来記である。(下図参照)
政宗の父輝宗は我が子の教育のため、虎哉に白羽の矢を立て、出羽国・米沢城へ召した。虎哉は期待通り政宗を立派な武将に育て上げた。
虎哉生誕の地、下西郷は岐阜市の北西に位置し、我が家から約2kほど西へ行った所にある。