渋沢栄一と郷純造(中)
栄一は、かって倒幕に命を賭けた。今、異郷の地パリで幕府の瓦解(がかい)を知った。何という運命か?人生の機微を感じずには居られなかった。15歳に成ったばかりの昭武を、直ぐに帰国させていいものか、思案に暮れた。そんな折、朝廷の帰国命令がきた。日本に常駐のレオン・ロッシュ公使からか逐一通信が入る。
水戸藩主・徳川慶篤(よしあつ・享年37歳)の訃報と、昭武の世嗣(よつぎ)が決定したという。パリ万博が済んで4か月ほどが経っている。既に日本に帰国している随行員二十数名は、各々がお国のために戦っている。
昭武の留学5年の予定は、僅か1年半で終わった・・・。
明治元年10月15日パリに別れを告げた。帰船中、栄一の胸中は色んなことが駆け巡った。船が上海に寄港した時、会津落城の報を知った。又、榎本武揚(えのもとたけあき)が幕府の軍艦数隻を率いて函館へ行ったと云うことも聞いた。
徳川慶喜が政権を帝(みかど)に返上したと云う報も入った。日本はどうなっていくのだろうか?
同年11月中旬、昭武一行は横浜港へ着いた。すでに同年8月27日に明治天皇の即位かあり、9月8日には明治と改元され、江戸も東京となっていた。
※.写真の特記無きは「明治を耕した話」 渋沢秀雄著から転写したものです。
【一橋家時代】
文久3年(1863)11月8日、渋沢栄一(23歳)は、従兄の渋沢喜作(成一郎・25歳))と村を出ることにした。
領主の安部(あんべ)や八州の警吏(けいり)から睨まれていた二人は、伊勢神宮参拝の名目で京都へ出奔した。
栄一はこの時、生まれて三月目の長女・宇多(後、歌子)に6年余の間会うことが出来なくなるとは、想像すらしなかった。父・市郎右衛門は栄一に餞別として百両を渡した。
翌元治元年(1864)京都に入り、二月ほど前、江戸で知己(ちき)になった平岡円四郎と面会した栄一と喜作は、彼の推挙で一橋家の「御用相談所下役」に命じられる。しかし、その後、京都水戸派によって円四郎は暗殺される。
翌年年号も慶応元年となり、2月一橋家「歩兵取立御用掛」を任ぜられ一橋領内を巡回し、兵4百数十名の募集に成功した。
翌2年12月慶喜が征夷大将軍に就任し幕臣となるが、栄一の本心では無かった。又、格付けもお目見え以下になり、勘定方を外され窮地に立たされた。
しかし、ピンチの後にチャンス有り。
慶応3年1月慶喜の命令で、民部大輔(たいふ)・昭武に従いパリ万博に旅立ったのである。
凡そこの6年の間に、栄一の持って生まれた素地と、恵まれた天資がより豊かになり、伸長したことは言わずもがなである。
郷純造(1825~1910)は幕末から明治に生きた政治家である。幼少の頃から読み書き算術に秀でていた純造は、田植えの時は小昼(こびる)の番を畔でしており、そんな時も本は片時も離さなかったという。又、夜は燈心一本で凡そ半時(1時間)本を読み、眠くなったときはキリを膝に立て学問に励んだという。
天保12年(1841)16歳の時、「江戸へ行く」と、置手紙を残し出奔した。が、名古屋の笠寺観音(現、南区笠寺町)で家からの追ってに依って引き戻された。親からは、「まだ若いし剣術の皆伝を取ってからでも遅くないから!」と、説得され断念した。この時同行してくれたのは、純造が通う大垣藩直轄剣術道場の大野理中(りちゅう)師範であった。
それからの純造は丸3年、学問は郷余斎に、剣術は大野道場でひたすら腕を磨いた。
そして遂に、
・一刀流剣術(表五段、裏五段)
・一刀流剣術中極(五位)
・先意流薙刀中極
3年後の天保15年、見事に三巻が皆伝され奥義を極めた。
〘武家奉公時代〗
弘化元年(1845)二十歳になった純造は、「笠松代官」に成ると云う思いを抱き、晴れて江戸へ旅立った。身体も大きくなり五尺八、九寸(約1m78cm)程あり、威圧感もあったという。父・清三郎政方は、餞別として20両を純造に持たせた。(栄一の餞別は百両であった)。
江戸に上り、
・大垣城城主・戸田采女正氏正(うめのかみうじまさ)の用人正木喜左衛門の若党 草履取り(給金年3両)
・弘化2年:旗下小姓頭頭取、松平縫殿頭の中小姓(同4両月々白米1斗5升銭500匁)
・弘化3年:芝増上寺頭寮定園上人の寺侍(同4両外に余得6両ほど)
・弘化4,5年:町奉行加役火附盗賊改、牧志摩守義制(まきしまのかみよしのり)の中小姓(同4両外に余禄有り)
若党の草履取りから始まった武家奉公は困窮の毎日で、主人の子供たちに読み書き算術を教えたり、写字・筆耕の内職の毎日であった。しかし、町奉行・牧志摩守に仕えてから給金も少しずつ良くなり生活も楽になった。
嘉永3年(1850)純造25歳、火事場見回り寄合席・蒔田敷馬介家老、内田格右衛門の女(むすめ)を妻る。名をイナ 通称シゲと云う。
翌嘉永4年(1851)大きなチャンスが来た。主人の牧志摩守が長崎奉行に命ぜられたのである。純造も給人格納戸役で志摩守に随伴した。
※.純造は幼名嘉助と云い15,6歳から「策一」と名乗っていたが、江戸で奉公先に同じような名があり「純造」と改名した。
※.江戸後期の一両は現在の凡そ4万円~6万円と言われ、江戸前期のそれは、10万円で末期は5千円~1万円と言われています。(日銀調べ)
嘉永4年(1851)純造26歳、牧志摩守(1801~1853)にお供して木曽街道を長崎に下った。ここで二つの大きな事件に遭遇する。
・嘉永4年(1851)ジョン万次郎の取り調べ
・嘉永5年(1852)ペリー来航、『別段風説書』を受けとる
この二件については、『大宮の郷土史・第29号』で織本重道氏が「長崎奉行牧志摩守義制を中心として」と題し、実に詳しく書かれていますので、それを引用し別項で記述します。
ジョン万次郎の件は、直木賞作家・井伏鱒二によって、再び世に知らしめた事で有名になった。又、織本氏はその論文の末尾に「牧志摩守がジョン万次郎に対して寛大に処置したことの影響は計り知れない」と書かれている。
嘉永6年(1853)ぺリー海軍少将が軍艦4隻を率いて長崎を避け、横浜の浦賀へ入航し、日米和親条約締結の発端となった。所謂、黒船来襲である。
松方冬子著オランダ風説書ー「鎖国」日本に語られた「世界」ーが手元にあります。その論文中『ペリー来航予告情報』の記事を抜粋しておきます。
十八年間日本に送られ続けた『別段風説書』の中で一番有名な記事が、一八五二年送付分の末尾にある。
「北米合衆国政府が日本との貿易関係を結ぶために同国へ派遣するつもりの遠征隊について、またもや噂が流布している。合衆国大統領の日本宛の書翰一通を携え、日本人漂流民数人を連れた使節が日本へ派遣されるとのことだ。その使節は、合衆国市民の貿易のため日本の港をいくつか開かせようとしており、また、日本の手頃な一港に石炭を貯蔵できるよう許可を求めるらしい(後略)」。
郷純造は給人格納戸役(身の回りのお世話役など)で主人に仕えていたが、幸い筆が達(た)つので随伴された。実は主人が少し体調を崩しており、殆ど純造が阿蘭陀通詞らに訳してもらいそれを清書し、老中・阿部正弘に伺出(うかゞいにいづ)した。又、万次郎の取り調べは17回に及んだが、老中からの返答は双方とも「返事には及ばざりし」だった。
それは「良きに計らえ」ということだが、まさか阿部老中はオランダ「別段風説書」中のぺりーの書翰に目を通さ無かったということはなかろう。それは、百も承知の上の「返事には及ばざりし」なのか?
約2年の長崎奉行の任務を終えた牧志摩守は、大沢安宅と交代して江戸へ帰ったが翌嘉永6年(1853)病死する。純造は、
幕府の小納戸役・神田求馬の給人~用人となり、給金も6~7両で3人扶持(ふち)で仕える。この頃勤めながら丹羽藩の牧野老中について、「長沼流」兵学を学んでいた。次いで、
・安政2年(1855)目付役・堀織部正利煕(としひろ)(函館奉行・外国奉行)の給人~用人
・文久元年(1861)堀伊豆守俊貴(堀織部正の父)の用人、
・文久2年(1862)大阪奉行 鳥居越前守利堅(としかた)の家老
・元治元年(1864)大阪奉行 松平勘太郎の家老となる。
純造は函館奉行・堀織部正に仕えて2年後、安政4年(1857)5月主人に随伴し、榎本武揚らと蝦夷地カラフトの北辺国防線を検分した。そして、西海岸を巡回後、東海岸のヲチョホカに新たな漁場を開くための視察をした。しかし、外国奉行も兼務になった翌々年、万延元年(1860)外国との交渉に不正があるとの噂が出た為なんの弁明もせず自刃した。
堀織部正(おりべのしょう)は用人達に次のような書置きを遺した。
「分量を過き事を處し候罪不可遁(のがれる)負乗の戒此事候」
織部正
用人共 江
※.(身の丈以上の事をしたことの罪からは逃れる事は出来ない
格の低い者が君子の如く振る舞いをした事は戒めるべきだ)
註:筆者訳
純造は長く用人(家老格)として仕えた主君の事を自記の中で
「織部正は文学秀才の名あり、度量広くよく衆(たみ)を容(い)れ、大事に臨むも心を労するの色を見ず(中略)実に英傑の士と云うべきなり。今の世にあらしめば、内外の事憂(うれ)うるに足らざると想像せり」。と称賛している。
純造は、またしても主人を亡くした。そんな純造に用人として声をかけてくれたのが、織部正の父、堀伊豆守だった。僅か1年程務めた後、大坂町奉行鳥居越前守の家老に抜擢された。2年後鳥居越前守が境奉行に転じた後、元治元年(1864)引き続き松平勘太郎の家老を務めた。
所でこの時二つの悦びがあった。
一つは、主人にお暇を貰い20年振りに在所へ帰り7日間ほど逗留した。近在近郷挙って歓迎してくれた。
想えば20歳で「笠松代官に成る」と云う夢を抱き、生まれ故郷黒野を出てから一度も帰ることは無かった。今は亡き父・政方の仏前に平素の無音を詫びた。幸い母は健常でお互いに手を取り合い悦びを分かち合った。しかし純造は、故郷に錦を飾ると云う心境には程遠かった。
もう一つは、我が生家黒野で、純造として待望の男子が授かった。名を「誠之助」と命名した。実は、純造に実子がなく誠之助の生母は女中(給仕)でフサと云う。長男は温(あつし)と云い在所の方からの養子である。
誠之助は生後間もなく、フサと従兄の清三郎ともう一人の男衆で、大阪の純造の下へ届けられた。
純造は町奉行の家老職を辞し江戸へ上がった。齢(よわい)不惑を一つ超えた。
純造41歳、時は慶応2年(1866)大阪奉行・松平勘太郎の家老職を辞して江戸へ帰る。住まいは小石川水道橋の浪宅に居を構えた純造は、心に期するものがあった。それは幕臣になることで、それには御家人か旗本の株を手に入れることであった。
だが年は変わっても売りがない。幕臣になるには相撲の親方株と同じで、株を取得しなければならない。幼少より信心強い純造は、意を決して成田山新勝寺に参籠して37日の断食を行った。神仏の加護に頼るしかないと云う心境に至ったのであろう。
【最後の幕臣】
慶応3年(1867)10月、断食の甲斐あって江戸へ帰ると、撒兵隊(さっぺいたい)園彌平から二五〇園で株の売り物があった。早速番替わりの願い書を提出した。だがこれより先、
同年10月14日将軍徳川慶喜は「大政奉還の上表」をなされ、これが為、撒兵隊の株は一気に一五〇園に値下げしたという。純造に番台への辞令がおりたのである。そして、翌慶応4年正月最後の幕臣として末席に名を連ねた。
撒兵 園 彌平
右病気に付願之通御暇申渡す
郷 純造
右彌平跡番台並撒兵申渡す
辰正月
幕府の撒兵の仕事とは毎日撒兵隊の訓練に出て、隔日に鉄砲を構えて門衛を勤めるのが日常の勤務である。正月に撒兵になったばかりの純造は、2月26日には御作事方勘定役になった。所が、3月3日お節句の夜に西城に呼ばれ、大目付・平岡庄七から次のような申し渡しがあった。
「此度、慶喜公ご恭順被遊(あそばされる)に付、江戸表へ官軍討入の事御容捨(ようしゃ)あるべく歎願(たんがん)の為、明後日、一橋殿お越しにてお供の、御目付・朝比奈勘四郎に従い御供の事」。
申し渡された純造は、扶持も「百俵五人扶持」に引き上げられた。このお供には誰一人として応ずるものがなく、純造に白羽の矢が立ったのだ。皆恐れて仮病を使い命令を避けた。官軍はもう神奈川を制圧している。
純造は、
「徳川の末路とは云え、敷代の厚恩を受けながら、さりとは見苦しき振舞いかなと、見るに忍びず」と、敢然と死地に突入して使者のお役に立ったのである。
政局は益々混迷を極めるも、新しい風も吹いてきた。
鎖国の邦日本に英米の黒船が頻繫に接近し始め、攘夷の世論は討幕の大勢に抑え込まれてきた。幕府の影は次第に薄れ、安政の大獄は却って幕府の墓穴を掘る結果となり、井伊大老は桜田門外で無念の死を遂げた。
岩倉具視を中心にした倒幕連合の主な顔ぶれは、
・薩摩藩:西郷隆盛、大久保利通、五代友厚
・長州藩:木戸光圀、井上勝、伊藤博文
・土佐藩:板垣退助、坂本龍馬、中岡慎太郎
・肥後藩:副島種臣、大隈八太郎(重信)、江藤新平<ら。
『薩長土肥』に依る「革命」という旗印の下に勢力は拡大されて行った。
開城の議決をするに先立ち江戸城の護りを固める事とした。純造の持ち場は、本丸大手と決まった。工兵差図役頭取の、最後のお役目としてここを護れることは本望であり、身体が奮い立った。
大砲を据え弾薬を貯え、華々しき討死にを覚悟した。然し将軍からは、
天璋院(篤姫)を通じて「江戸城は穏やかに開城し、軽率な振舞いは無きように」というお言葉が幕下に懇諭(こんゆ)された。だが城内は意見が割れた。純造の率いる部隊の士卒も騒ぎたて、脱走か謹慎か二者択一に迫られた。
そこで、それを決めるため、場内の隊付き士官一同は詰め所に集合し、総評議を開いた。純造は烈々たる気魄(きはく)を込めて大勢の帰趣(きしゅ)と大義の存するところを熱心に諭し、脱走論者らを圧倒した。評議は遂に『謹慎』と決定したのである。
純造は「万一の時に備える」と云う掛に任命されていたので、密かに元込銃三千挺、スナイドル銃千挺そして弾薬一式を、深川の松原喜兵衛宅に隠しておいたのである。これらはその後官軍に引き渡された。
江戸城の無血開城は慶応4年4月11日であった。
ここで、純造の”出世街道”を記しておこう。
鉄砲を担いだ一撒兵から三段跳びに出世した純造は、奇知と肝略(たんりゃく)を持って重大な任務を果たしてきた。
慶応4年3月、「小十人格工兵差図役並勤方」に昇進し『裏金の陣笠』を冠って西丸下の操練所で、練兵の指図をする身となった。裏金の陣笠は、撒兵隊の憧れの的で一度は冠りたいと願うものである。。
同年5月、「大御番格工兵差図役頭取勤方」(200俵10人扶持)
同年6月、「工兵差図役頭取」(400俵10人扶持)
この最後の「工兵差図役頭取」職は、一方では将軍に対する奉公となり、他方では明治政府への忠誠と成る偉勲であった。
幕府は瓦解し、純造の「笠松代官に成る」と云う夢は途切れた。
慶応4年7月16日、鎮台府陸軍頭を通じて「罷出候様(まかりいずそうろう)」のお召があった。が、純造は丁重に拝辞した。
〈参考文献〉
※.明治を耕した話 渋沢秀雄著 発行所:(有)青蛙房(せいあぼう)
※.渋沢栄一を知る辞典 編者:公益財団法人 渋沢栄一記念財団 東京堂出版
※.論語と算盤 編者:公益財団法人 渋沢栄一記念財団 発行所:清興社
※.男爵 郷誠之助君伝 財団法人 郷男爵記念会 代表者:後藤国彦
※.人間・郷誠之助 後藤国彦校閲 野田禮史著 発行所:今日の問題社
※.日本の歴史・開国と攘夷 小西四郎著 発行所:中央公論新社
※.オランダ風説書 松方冬子著 発行所:中央公論新社
※.広辞苑 第四版 岩波書店
※.英雄たちの選択 選,渋沢栄一知られざる顔 "論語と算盤" を読み解く nhkbsプレミアム
※.人名事典 改訂版 編者:三省堂編修所 以上
次回後編は渋沢栄一と郷純造との関係又、長崎奉行でのジョン万次郎の事、牧志摩守のことを「織本重道」氏の論文を中心としてお送する予定です。