相良国太郎の鎌倉江島名所案内 和彦雑記(2)
相良国太郎編輯・鎌倉江島名所案内 著者蔵拝(下図参照)
「鎌倉は相模国鎌倉群の南部の名邑で、地勢南一面は外海を臨み、其の外三方は皆、丘稜だ、この地は源頼朝以来世々を覇府址(はふし)してきた故、名所遺跡は沢山あろうが其の最著なるものを二三のみ挙げておく」
神社;鶴岡八幡宮、鎌倉宮
仏寺;建長寺、浄智寺、円覚寺、寿福寺、英勝寺
浄妙寺、妙本寺、光明寺、大仏、長谷寺観音
旧蹟:頼朝屋敷、北条屋敷、管領屋敷 上杉定政屋敷
太田道灌屋敷 源氏山、尊氏屋敷、稲村崎
名勝:由比浜、七里浜、江島
明治15年5月12日 出版御届済
同 年5月22日 出版
編輯兼出版人 神奈川県士族 相良国太郎
住所 相模原鎌倉群雪下村三番地寄留
※鶴岡八幡宮と江島以外の説明は割愛しました。’
〇鶴岡八幡宮:雪下村に鎮座するを、伊予守源頼義が奥州征討の後創建し
た。其の殿宇(でんう)は結構美観で、古しより有名な、
大社であり、参拝の人続々として常に人は絶えない。
〇江の島:片瀬村の南に有る小島で、潮が干いた時は沙路(すなじ)を東
から條(徒)歩で扺(わたる)と良い。此の地有名な勝地で、
内外からの遊客で常に雑踏(こんざつ)している。島中は厳島
(いつくしま)の神で祠られている。
「清サンの旅枕(12)」で清サンが横浜の競馬場見物の帰り道、東福寺に立ち寄り安全を祈願した。実はその東福寺に横浜で生まれた、劇作家であり小説家の長谷川伸は79歳の生涯を終え、泉下の客となり静かに眠っている。
長谷川伸の代表作に「一本刀土俵入」(昭和6年)がある。横綱を目指した取的の駒形茂兵衛が挫折をし、空腹で一文も持たない茂兵衛は、水戸街道は取手宿を通り掛かった。その時偶然見かけた、宿で働くお蔦が、可哀想にと櫛、かんざし、巾着ぐるみを分け与る。
10年後、渡世人となった茂兵衛は、取手宿のお蔦夫婦3人の窮地を救い、お蔦の生まれ故郷八尾へ帰すのである・・・。
※八尾町に文化協会が建立した「建碑のことば」と長谷川伸の碑文が建てられており、そこに詳しく書かれています。長文ですがお付き合い下さい。
建碑のことば
「長谷川伸、本名伸二郎は横浜に生まれ、昭和38年79歳で世を去るまで、数多くの小説と167篇の戯曲を発表した。中でも3歳で母と生別し、その辛酸の生い立ちを綴ったと言われる「瞼の母」は名高い。
八尾町との関わりは、おわら節を愛し、この鄙(ひな)びた坂の町を訪れたことに始まり、その思い入れは代表作「一本刀土俵入」のヒロインお蔦を八尾の生まれとしたことでも知られる所である。
この碑は、親交のあった初代富山県民謡おわら保存会会長川崎順二博士の遺志を継ぎ、生涯市井の人情を愛し、大衆文学に徹した作家長谷川信と、わが町との心の繋がりの証として、建立するものである」。
平成4年 風の盆前夜
八尾町文化協会
「小生の『一本刀土俵入』のお蔦は
越中八尾の生まれです。
『一本刀土俵入』の大詰で、茂兵衛に
見送られて利根川近くの取手を
立ち去ったお蔦は夫と女の
子と三人で八尾におちつ
き年々九月一日風の盆に親
子夫婦三人で小原節を
楽むだと思うことは作者
である私だけの勝手な空
想であるかしら」。
お蔦あみ笠背に
投げかけて越中
八尾の
風の盆
長谷川伸
越中おわら
〽越中で立山 加賀では白山
〽駿河の富士山 三国一だよ
唄われよー わしゃはやすー
300年ほど続くという越中おわら節の町に
最初に足を踏み入れたのは10年ほど前で、それから8年間,毎年通い続けた。その魅力は何だろう?。
それは何といっても、哀調の中にも気品高い胡弓の響きを背に、若き男女の一糸乱れぬ、研ぎ澄まされたその踊りだろうと思われる。どれ程の練習を積み重ねて来たのか、想像もつかない。
※飛騨古川の料理旅館「八ツ三館」(やっさんかん)は、越中八尾の出身で安政年間から、凡そ160年続いている老舗です。
あゝ野麦峠(山本茂美著)の中で、無念にも亡くなった製糸女工の政井みねも、信州の工場へ旅たつ前日は、ここ八ツ三館で一夜を過ごし、女将さんにお世話になった一人です。
※余談ですが富山の八尾小学校と旧野積小学校(八尾小学校に合併)の校章には、各々繭(まゆ)の形がはいっています。