谷汲山・華厳寺「旅枕」(16)
明治30年(1897)清サン54才の春、久し振りに谷汲さんを訪れた。何時ものように、大きな2つの念仏石(下図詳細参照)を撫で、手を合わせ念じた。
谷汲山・華厳寺(天台宗)へは子供の頃、祖父が手綱引く荷馬車に祖母と一緒に乗せられて、よくお参りに出かけた。家より北西に約3里(≒12㌔)2時間ほど要した。往生したのは、馬が走りながら時々糞をする。それを素早く降りて処理をするのが自分の役目だった。因みに尿の時は小走を止め、後ろ足を開き用を足していた。
お参りに出かけ、そこでの楽しみが二つあった。
一つは、二王門の左側(西)の旧普門院の境内に鎮座する2つの念佛石を撫でることと、もう一つは二王門からの帰り道、お店に立ち寄りお土産を買ってもらうことだった。
只、二王門をくぐるとき二王様が怖くて顔を背けて通り貫けていた。
谷汲山華厳寺全図(下図参照)を事務所で求めた。
見て驚いた。こんなに広くて沢山の建物が林立鎮座している事を初めて知った。まるで何処かの城塞の様に思えた。
そこには谷汲山へ立ち寄られた、第65代花山天皇(968~1008)が三首の歌を詠まれている。又、当山主・恵覚の累縁記が載っている。(何れも次々図参照)
花山法皇(かざんほうおう)第65代天皇御詠歌三首
〝今までは親と頼みし笈摺(おいずる)を
脱ぎて納むる美濃の谷汲”(過去)
〝世を照らす佛の誓い(しるし)ありければ
まだともしびも消ぬなりけり”(未来)
〝萬代(よろずよ)の願いを茲(ここ)に
納めおく水は苔よりいづる谷汲”(現在)
※笈摺(おいずる):巡礼が着る白衣。笈を背負って歩くとき肩の部分が 擦り切れるのを防ぐために着た上着。
累縁記を搔い摘んで記しておきます。
「夫(そ)れ当山は、桓武天皇(かんむてんのう)の延暦(えんりゃく)17年(798)の創建にして開基は豊然上人なり、当山開創の縁由を語るにその昔、奥州会津郡黒川の郷に大口大領居士と云う人ありて、厚く佛舞を信じ十一面観音菩薩の霊像を強く得んとして、遠く京師(けいし=京都)に上った。運よく一佛工から笠と杖を携えた、七尺五寸の大像を大領は授かり大層喜んだ。
また、佛工は『この尊像は文殊大士の御作で、御身に華厳経を書き、御袈裟には三千佛並びに諸尊の三昧耶形(さんまやぎょう)を写せりと。
(中略)大口大領大いに悦び信心肝に銘じて、頂礼〈ちょうらい)之を奉持して帰路に赴く。途中赤坂駅に至りその夜、霊像夢に告くて曰く『是より5里北に有縁の地有り』と。霊告に由って当山に護持し、苑廬(えんろ=草庵)を営む豊然と云う沙門と会い大いに信心を起こし、山谷を開拓し一つの殿宇(でんう=殿堂)を建て、尊像を安置した。
(中略)延喜17年(917)醍醐天皇は其の瑞応を聞食(きこしおす=召し上がる)し、勅して谷汲山華厳寺の額を賜り、天慶7年(944)朱雀(すじゃく)天皇は、勅願寺の詔を下して、鎮護国家の道場となし就中(なかんずく=とりわけ)花山法皇は、観音霊場33所をご巡幸あらせられ当山を以て満願所と定められ、御禅衣(笈摺のこと)及び御杖、御製の詠歌三首を納められた。(後略)
明治30年1月 当山主 沙門恵覚 敬識
※桓武天皇:天平9年(737)~延暦25年(806)第50代天皇
※三昧耶形:密教に於いて佛を表す象徴物のこと。
※頂礼:仏教の礼法の一つ。尊者の前にひれ伏し頭を地につけ足元を拝 する最敬礼。
※醍醐天皇:元慶9年(885)~延長8年(930)第60代天皇
※朱雀天皇:延長元年(923)~天暦6年(952)第61代天皇
※勅願寺:時の天皇の発願により、国家鎮護などを祈願して創建された祈願寺のこと。主な寺に松島の瑞巌寺や滋賀の石山寺などがある。
角大師(つのだいし)のお札
谷汲山の絵図を買い求めた折り頂いたもの。「魔除けとして戸口などに貼ると良い」と教わった。
また、元三(がんざん)大師良源の画像で、二本の鬼形の角があると云う。
純造は甥の清三郎に全てを委任しこの燈籠一対の建立を完成させた。元来純造は信仰心が厚く、慈悲喜拾の深い人で、この10年ほど前にも小野(この)・正法寺に観音堂を寄付したりしています。
次回は「清サンの旅枕(17)」は、
【ここで一言】
と題して「念仏石発見‼&富岡屋・大口大領」を掲載する予定です。