長崎奉行・牧志摩守 大宮の郷土史より

2020/06/25
長崎奉行 牧志摩守義制(まきしまのかみよしのり)

いきさつ(経緯)話は8年ほど前に遡る。巻物の軸の肩に「長崎奉行 牧志摩守 志摩公筆」と書かれた書が出てきた。我が家の古い木箱からである。PCで検索すると、「大宮の郷土史」1件がヒットした。志摩守の書の写真を同史にお送りした所、次のようなお手紙と冊子を頂いた。
「(前略)実に多くの方々が見ておられることに、改めて驚かされた次第です。
当会ではこゝ数年旧市内(大宮市)の著名な寺院を対象に、共同調査を実施しております。大成山・普門院の調査の折、牧志摩守義制の墓石を見つけ、副会長・織本重道氏が中心になりまとめ、大宮の郷土史に発表したものです(後略)」と、当時の会長・河田捷一様からのお便りでした。

 いつかこの大宮の郷土史・牧志摩守義制のことを所属していた、「黒野城と加藤貞泰公研究会」に発表したいと思って居りましたが、機会を逸し今日に至っていました。長らく"お蔵”入りしていた「大宮の郷土史 第28号・第29号」を基に全面的に採用させて頂く次第です。
尚、構成上牧家の系図は後ろにしました。

また、記述に当たり現会長の織本重道様には御了解を得ております。

※=織本氏註
*=筆者註

(*画面をクリックすると拡大します)

牧志摩守の書の肩書 書の説明は後述

牧志摩守の書の肩書 書の説明は後述

1.長崎奉行牧志摩守義制

嘉永3(1850)年11月29日牧志摩守長崎奉行仰せ付けらる。(一色丹後守直休代り)
嘉永4(1851)年7月21日江戸出立、木曽路旅行
同年      9月7日長崎着(くんちの祭日はこの頃9月9日と11日)
同年      9月12日御用引請け
嘉永5(1852)年9月12日大沢豊後守定宅(嘉永6年12月乗哲と改名)御引請け
同年      9月23日長崎出立
同年      11月帰府
嘉永6(1853)年4月28日西丸留守居仰せ付けらる。
(「長崎奉行代々記」鈴木康子『長崎奉行の研究』思文閣出版所収、
『長崎事典 歴史編』長崎文献者を基にした。)

【牧志摩守 長崎奉行としての主な活躍】
1)就任時米価騰貴人心騒擾、米蔵を開き米価抑制、志摩守墓誌に「始就任米價騰貴人心騒擾君即日發倉廩時價頓落」とある。
※『新長崎年表』(長崎文献社)嘉永3年夏のところに、
「米価騰貴して一石銀160目となる」とある。
2)窮民対策
志摩守の墓誌に「剏穀倉以賑窮窘」とある。(*剏⇒籾か)
※『新長崎年表』嘉永5年壬2月のところに、
「馬込郷船倉内に籾庫をつくる」とある。
3)長寿者褒賞
小島郷のセキが嘉永5年に100歳になったのを祝し米10俵給与
正覚寺浦川家の墓地に碑がある。
右の者長寿に付き御手當米拾俵被(以下破損)
久大和守殿被仰渡候段牧志摩守殿被(以下破損)
4)貿易統制
志摩守墓誌に「長崎為漢蘭互市場所賚貨物歳有定額
       而好蘭不已事發即誅君嚴撿覈舶載者償以定價」とある。
5)漂流民の受け入れ
『新長崎年表』には、
嘉永4年12月 唐船、ルソン漂着の紀州人5名を送ってくる
同 5年1月 唐船、漂着肥前人6名を送ってくる、とある。

大宮の郷土史 第28号・第29号

大宮の郷土史 第28号・第29号

ジョン万次郎の取り調べ

ジョン万次郎
文政10(1827)年1月1日土佐国幡多郡中ノ浜で生まれる。
天保12(1841)年1月7日万次郎(14歳)の乗った漁船嵐に逢い漂流、
  6日後 鳥島漂着(*他に4人の同船者あり)
同年 5月9日捕鯨船ジョン・ハウランド号ホイットフィールド船長に
  救助される。
1841年11月20日ホノルル寄航(*ハワイで4名下船)
1843年5月7日(16歳)ニュベッドフォード帰港フェアヘブン生活、
  オックスフォード・スクールを経て、バートレット・アカデミーで
航海術、数学、測量術等を学ぶ。
1846年5月16日(19歳)フランクリン号で捕鯨航海
1849年9月23日(22歳)フランクリン号ニュウベッドフォード帰港
1850年5月下旬(23歳)カリフォルニアの金山で働き帰国費用を稼ぐ
(*約600ドル)
同年 10月10日エライザ号でホノルル着帰国準備
同年 12月17日上海行き商船サラボイド号でホノルル出港(*他2名と)

ジョン万次郎 万次郎資料館リーフレットより転写

ジョン万次郎 万次郎資料館リーフレットより転写

長崎奉行牧志摩守取調記録

嘉永4(1851)年9月29日 長崎着
 10月1日踏み絵による宗門改め、踏み絵、牧志摩守の取り調べ
 12月22日まで都合18回受ける。
「私共、外国逗留中邪宗門等学候儀は勿論、右体の儀被勧候儀無之。
 如何と心付候儀も毛頭無御座候。」
万次郎の家は一向宗。アメリカではホイットフィールドの家族とユニテリアン教会(三位一体否定)に通っていた。洗礼を受けたかどうかは不明。
上 漂流から帰国に至る経緯
中 鳥島、オアホ島、ハアヘイブン等の様子
下 持ち帰り品リスト
嘉永5(1852)年6月23日(25歳)釈放
次の品は取上げ(長崎奉行の釈放申渡所による)
 砂金銀・横文字書籍・書付類、銕砲井玉薬類、オクタント、
異國之骰子、船具但し砂金銀銅銭は代りに日本銀を与える。
     (*オクタント=八分木、骰子=さいころ)

命の恩人 ホイットフィールド船長 同上 

命の恩人 ホイットフィールド船長 同上 

土佐藩の取調べ

嘉永5(1852)年7月11日高知着 土佐藩の取調べ
 後藤象二郎大きな影響を受ける。
 東洋之を招きて、審に海外の事情を聞けり。伯亦其席に陪し、齎らし來れる世界地圖一枚を乞ひ得て大に喜び、歸り來りて蟄居数日、室を出でず。家人怪んで之を窺へば、伯は地圖を机上に展べ、山川、國土、港湾、都市等に悉く朱點を施し、或は譯字を記入しつ々、研鑽餘念なし。
※東洋は吉田東洋、伯が後藤象二郎
大町桂月著「伯爵後藤象二郎」(『中浜万次郎集成』より)
9月24日取調べ終り帰村許される。
10月5日中ノ浜着 母志をと対面。高知城下の教授館へ出仕

左から後藤象二郎、勝海舟、岩崎弥太郎、坂本龍馬 同上

左から後藤象二郎、勝海舟、岩崎弥太郎、坂本龍馬 同上

老中 阿部正弘より江戸へ召し出し

嘉永6(1853)年6月20日(26歳)老中阿部正弘より江戸に召し出される。
長崎奉行牧義制幕府二報シテ曰ク
『萬次郎ハ頗ル怜悧二シテ國家ノ用トナルベキ者ナリ』ト。
 「阿部正弘事蹟」(『中浜万次郎集成』所収)
同年11月22日江川太郎左衛門手附となる。
〈この項は、中浜博『私のジョン万次郎』小学館、中浜武彦『ファースト・ジャパニーズジョン万次郎』講談社、川澄哲夫編『中浜万次郎集成』小学館等を基にした。

大宮の郷土史 第28号・第29号

阿部正弘 図説・日本史通覧より転写

オランダ商館長ドンケル・クルチウス

オランダ商館長との交渉
嘉永4(1851)年7月、アメリカ国務省、オランダ外務省に通商要求施設の、遣日を伝達し、長崎オランダ商館長の協力を要請。
 オランダ政府、東インド総督にこの趣旨伝達
 東インド総督、東インド最高軍法会議裁判官ドンケル・クルチウスを長崎商館長に任命
嘉永5(1852)年6月5日 クルチウス普通の風説書と別段風説書を提出。
同年      6月6日 クルチウス、長崎奉行宛の書簡提出。
〈*拙稿「渋沢栄一と郷純造(中)長崎奉行牧志摩守」で、松方冬子の「ペリー来航予告情報」の記述あり御参考に〉

長崎奉行牧志摩守たびたびこの「対策」について問い合わせるが、クルチウスは奉行が役職上(正式に)あるいは幕府の指令を受けて、情報を受理する本人であるとする文書がない限り示すことはできないと拒否(クルチウスは正式交渉を求めた。また長崎奉行が9月に交替することを知らなかった。)
同年9月12日長崎奉行大沢豊後守定宅御用引請け
  9月21日クルチウス日蘭通商条約草案(シーボルト起草)提出
  9月23日長崎奉行牧志摩守長崎出立

阿部正弘の東インド総督書簡等についての諮問に対し、
「外国のことは長崎奉行が詳しいのだから、長崎奉行が帰ってきたらその考えを聴いたらよいだろう」と答申
同年11月15日長崎奉行牧志摩守の阿部正弘宛上申書
 「オランダ人は貧欲でその情報は信用できない。」
嘉永6(1853)年4月28日牧志摩守西丸留守居仰せ付けらる。

 平生尤盡心邉務・抱隠憂多所建白癸丑四月以疾屏居遷西城留守(志摩守墓誌)
同年6月3日ペリー来航
〈この項は、フォス美弥子『幕末出島未公開文書』新人物往来社、岩下哲夫『幕末日本の情報活動』雄山閣、岩下哲典『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』洋泉社等を基にした。〉

ペリー伝来の電信機(逓信総合博物館蔵) 

ペリー伝来の電信機(逓信総合博物館蔵) 

牧志摩守長崎奉行として歴史的役割

◎.牧志摩守義制の長崎奉行としての歴史的役割は、ジョン万次郎取調べとオランダ商館長ドンケル・クルチウスとの交渉である。
 ジョン万次郎の取り調べではかなり寛大に処置し、土佐へ帰国させた。土佐では後藤象二郎はじめ多くの者が、おそらく坂本龍馬も河田小龍を通して万次郎の影響を受け、これが新時代に繋がっていった。
ジョン万次郎はその後江川太郎左衛門家に寄宿したが、幕末・明治期に活躍した大島圭介、榎本武揚、大山巌、福沢諭吉、岩崎弥太郎、西周等多くの者が訪ね、中浜塾で海外事情や英語を学んだ。また、長崎奉行所で取り上げられた書籍は後に返還されたが、その中の一冊は安政6年頃、手塚律蔵、西周によって又新堂から「伊吉利文典」として出版された。
この本は初級英文法書で、その後洋書調所からも出版され、さらに開成所から翻訳出版された。我が国英語学習の基本となった書物である。
なお、「伊吉利文典」の表紙には「手塚律蔵 西周助閲」と並んで、
「津田三五郎 牧助右衛門校正」とある。この牧助右衛門は志摩守義制の子の義道の可能性がある。又新堂で英語を学んでいたのだろうか。(*本編、最後の「牧家の系図」参照)
〇.このように牧志摩守がジョン万次郎に対して寛大に処置したことの影響は計り知れない。

 ドンケル・クルチウスは特別な使命を帯びて日本にきた。風説書だけでなく東インド総督の信書を持参した。いろいろ理屈はつけたが、結局受け取り阿部正弘に送った意義は大きい。だが、クルチウスとの信頼関係を築けぬうちに任期が来て長崎を去った。このことはクルチウスにとっても予想外のことだったらしい。もし、もう少し時間があり、駆け引きを超えて分かり合えれば、もしかして協議会の設置に進み、その後の日本の対外政策も違った方向にいったのではないかと残念に思う。
 いずれにしても牧志摩守義制が幕末の大事な時期に長崎奉行となり、日本の針路に大きな影響を与えたことは記憶されていいことだと思う。

最後になったが、植竹 壽様、牧 明夫様、普門院住職阿部道雄様・奥様 安部道彦様・奥様に大変お世話になった。感謝申し上げる。

*以前頂いた「大宮の郷土史第28号 2009.3」を紐解くとその20頁に,
4.旗本牧家墓地
 『牧家墓地には与野町に采地を与えられた「長重」、その父「長勝」、長重長男「勝秋」、その子太兵衛、長重二男「長高」と、四谷龍昌寺から改葬した長高子孫の丹波守義珍、志摩守義制、相模守義道とその子孫の墓石がある。』と書かれている。
01墓石から20墓石まで記述されている。
また、28頁に普門院各調査担当者は次の通りである。として、
1.住職墓地
01~06 河田捷一
07~46 織本重道、斉藤文孝、竹内 踔
47~61 福地一夫、松本 宏
2.普門院開基金子駿河守墓地 川崎 功、田村政敏、渡辺慎三郎
3.旗本小栗家墓地
01.04.06~14 佐藤利夫、島村智子、村田悠紀夫
15~17.31.32 斉藤文孝、島村智子、竹内 踔、村田悠紀夫
02.03.18~20 飯島瑞彦、豊嶋伸行
4.旗本牧家墓地
01~07 田村正敏、織本重道
09   浅子武夫、織本重道
17~20 浅子武夫、河田捷一、竹内 踔、村田悠紀夫、織本重道
    全体のまとめは、織本重道が行った。

 普門院第四十三世阿部道雄様、奥様、第四十四世阿部道彦様、奥様には全面的にご協力いただいた。厚くお礼申し上げる。

*さいたま市大宮区の大成山普門院は、開山600年に垂とする曹洞宗の名刹である。曹洞宗といえば道元禅師であり、我々は直ぐに永平寺を思い起こします。
そんな名刹普門院の中に、郷純造が建立した牧志摩守義制の墓誌があるとは、何という奇遇か、縁を感ぜずには居られない。また、それを見つけ出して下さった大宮の郷土史研究会の諸兄に感謝いたします。
拓本を取り清書し、それを活字にするまでの工程は、大変な作業であり神経を使います。重ねてその労に謝意を表すると共に、御許可下さったご住職の阿部道雄様はじめ皆々様に御礼を申し上げます。
 

普門院の墓地 上から住職の墓地、小栗家の墓地、牧家の墓地(大宮の郷土史第28号より)

普門院の墓地 上から住職の墓地、小栗家の墓地、牧家の墓地(大宮の郷土史第28号より)

旗本 牧氏の系図

旗本 牧氏
ー長崎奉行牧志摩守義制を中心としてー
              織本重道
旗本 牧氏
 清和源氏義家流足利一門、越前守護斯波高經九代の孫義長は、家名を津川と改める。義長嫡男長義と二男正勝は母方の姓牧氏を称す。
橘氏との説もあり、長高の墓石には、「従五位下牧下野守橘長高」とある。おそらく本来牧氏は橘氏で、斯波氏の系統を強調すれば源氏ということであろう。
「長義」:義清ともいう。津川義長嫡男。母は尾張国愛知郡島田城(現名古屋市天白区天白町島田)城主牧義次(左近)の女。母方の姓牧氏を名乗る。始め織田信秀に仕えその死後信長に仕える。下野守(*しもつけのかみ)
同国春日井郡川村城(現名古屋市守山区川村町)城主岡田時常の長女を娶り川村城を継ぐ。後織田信秀の妹長栄寺殿を娶る。天文十七(1548)年愛知郡前津庄小林(現名古屋市中区大須四丁目)に新城を築き四.〇〇〇石を領した。
嫡男長清の妻は織田信長の妹・おとくの方。長義・長清の墓所は小林城跡に建てられた清浄寺(*以下主要な経歴以外は割愛し名前のみ記します)
「正勝」:母方の姓牧氏を名乗る。牧氏系図では「兄長義之讀家」とある。ー「長正」
ー「長勝」:又十郎、助右衛門 永禄五(1562)年尾張国生れ。母は某氏。天正5(1577)年16歳で初陣 寛政譜には伊勢国河内の役とあり、牧氏系図では勢州大河内役とあるが、年代から見て石山合戦か。
寛政譜に、「のち流落」とある。妻が荒木村重謀叛に連座してのことか。
天正10(1582)年瀧川一益に仕え、天目山の戦いで活躍。
同 18(1590)年家康に仕え、小田原攻めで使番を務める。
慶長5(1600)年9月関ヶ原の戦いで使番を務める。
同 14(1609)年11月16日名古屋城造営地検点(実紀)
同 15(1610)年閏2月8日佐久間正實、瀧川忠政らと共に普請奉行として、名古屋に赴く。(実紀)縄張りを行う。(牧氏系図)
※造営地を検点し、縄張りを行うなど、名古屋城の基礎を作ったのは牧長勝といえる。
平成14年に開催された徳川美術館「尾張の戦国武将たち」展に、加藤清正の 牧助右衛門・滝川豊前守宛書状(慶長15年)が展示された。
元和8(1622)年12月13日死す、61歳
傳翁宗心 大成村普門院に葬る。のち代々葬地とする。墓石現存(墓石には 「寛永拾一年戌ノ十二月拾三日」〈1634〉とあるが、これは建立年か)

ー「長重」-「勝秋」-「勝征(かつゆき)」-「長高」-「長富」
ー「義陳(よしのぶ)」-「長賢(ながかた)」-「義珍(よしたか)」

ー『義制(よしのり)』:銕五郎、市次郎
 享和元(1801)年10月11日出生、実は小普請組堀織部利哲(としあきら)四男(墓石では第三子)。大坂東町奉行から大目付となった堀伊豆守利堅は実兄。母は交代寄合溝口修理直福女(中略)
弘化3(1846)年12月15日火附盗賊改加役(墓石では「兼儉匪使」とある)仰せ付けらる。(*純造この頃牧志摩守の中小姓となる)
嘉永2(1849)年小普請奉行仰せ付けらる。
同 3(1850)年3月23日大奥長局その他修復成功により時服を賜る(実記) 同年     11月29日長崎奉行仰せ付けらる。(*長崎奉行の事は後述)嘉永6(1853)年4月28日西丸留守居仰せ付けらる。
同年      8月28日病死(墓石では8月7日)53歳
晩翠院喜山静焚居士 龍昌寺に葬る。
※明治40年輔門院に改葬、墓石現存
※義制の読みは、『幕末維新人名事典』等では「よしのり」、『長崎事典 歴史編』等では「よしさだ」としている。
※普門院に義制寄進という高蒔絵飾り棚がある。さいたま市指定有形文化財 埼玉県立歴史と民俗の博物館に寄託。

ー「義道」;又太郎(実記では又三郎)、修理、助右衛門 維新後春窓
文政11(1828)年5月22日出生、母は小姓組番頭大久保駿河守只海養女壽賀 文久3(1863)年将軍家茂上洛の供仰せ付けらる。
元治元(1865)年第一次長州征伐に際し将軍家茂に従い大坂城に赴く。
慶応元(1865)年11月7日禁裏附仰せ付けらる(*禁裏=天皇の住居)
同年      12月7日従五位下相模守に推任。
墓誌に、「君感じて奮い立ち、領地の丹波からの500俵を供御(天皇の飲食物)に充てるなど忠義を尽くす」とある.
慶応2(1866)年8月1日幕府献上の馬拝領。
同年      12月25日孝明天皇崩御。墓誌に、「君哀しみ嘆きて己まず」とある。
慶長3(1867)年5月14日江戸に帰る。
墓誌に「悲しみのあまり、ついに天下の事を為すことができず、辞職を願い、帰り、一年を超えて外出しなかった」とある。
維新後江戸屋敷返上、丹波国氷上郡小倉村に居住。
明治12武蔵国北足立郡与野町に移住。(*両村共牧家の領地)
同 13年2月20日病死。53歳
大空院殿道契玄微居士 普門院に葬る。墓石現存
※墓誌に領地として
上野国佐位郡今井村、下触村、堀下村、新田郡下江田村 500石余
武蔵国足立郡与野町 200石余
丹波国氷上郡佐治町、小倉村 500石余
相模国大住郡戸田村 95石余 計1300石余とある。
また建立者15名の名が刻まれている。順に、大蔵大書記官郷純造、上野国中島裕八、中島文在、武蔵国井原平八、丹波国衣川佐兵衛、足立嘉右衛門 中嶋秀太郎、相模国大貫弥七、東京塚達、陸軍中尉柴田至、大蔵六等属井原溌一、大蔵十等属岩澤興行、男牧謙、松平敏行、大蔵一等属中島行孝
 (*郷純造の履歴は省略。渋沢栄一と郷純造のブログをご覧ください。) ー「義煕」:又太郎、謙、俳号酔茗
嘉永3(1850)年12月17日出生 維新後与野町居住
明治28年9月6日病死。46歳
新源院殿義峯酔茗居士 普門院に葬る。墓石現存

*この牧家の系図は割愛して記載しています。詳しくは下記までお問い合わせ下さい。
大宮郷土史研究会
〒337-0053 さいたま市見沼区大和町2-663 織本重道方
          ☎048(684)8144 
               (織本会長にはご了解を得ています)
参考資料:「大宮の郷土史 28号」2009年3月発行
     「大宮の郷土史 29号」2010年3月発行

大宮の郷土史 第28号・第29号

牧志摩守義制 漢詩の掛軸(筆者蔵)

牧志摩守義制の漢詩の解説

(雑詩 陳祐)    読み下し文
無定河邊暮笛聲 無定河の辺 暮笛の声
        (むていかのほとり ぼてきのこえ)
赫蓮臺畔旅人情 赫蓮台の畔 旅人の情
        (かくれんだいのたもと たびびとのじょう)
函關歸路千餘里 函関の帰路 千余里
        (かんかんのきろ せんより)
一夕秋風白髪生 一夕の秋風 白髪生ず
        (いっせきのあきかぜ はくはつをしょうず)
    壬子 中秋          牧義制落款
  (みずのえね)
   《七絶仄起下平聲庚韻》
(口語訳)
無定河の岸べのほとりに、夕暮れ時の笛の音が耳に入ってくる。
赫蓮台のほとりにたたずむ旅人には笛の音を聞くにつけても、寂しさがこみ上げてくる。
遠く函谷関への帰り道は、千里余に及ぶ道のりである。
それを思うにつけてもこの一夜の秋風に、俄かに白髪が生ずるのである。
  壬子=嘉永5(1852)年
(語釈)
〇陳祐・・・伝記は分からない。全唐詩では、無名氏の雑詩の中に入れられている。〇無定河・陜西省北部を流れる川。流れが急なため絶えず川の深さが変わるところからこのように呼ばれる。〇赫蓮台・・・寧夏回族(ねいかかいぞく)自治区の首府・銀川市の東南、黄河に臨むところにあった高殿。五胡十六の一つの大夏国(だいかこく)をたてた『赫蓮渤渤(かくれんぼつぼつ)』が、築いたものといわれている。〇函関・・・函谷関(かんこくかん)のことで関所のこと。

*読み下し文は「国島京子」様に、
 口語訳と語釈は「郷孝夫」様にご協力を頂きました。御礼申し上げます。

*この書を牧義制の気持ちに置きかえて詠んでみました。
 中島川辺暮笛声
 眼鏡橋畔旅人情
 府城帰路四百里
 一夕秋風白髪生
  壬子 中秋 牧義制
中島川のほとりに夕暮れどき笛の音が聞こえてくる。
眼鏡橋のたもとで佇ずんで笛の音を聞くと一層寂しさがこみ上げてくる。 江戸城への帰り道は遠く四百里に及ぶ道のりである。
それを思うにつけても、この一夜の秋風に俄かに白髪が生ずるのである。   嘉永5年 中秋               牧義制

*牧志摩守の心情を察するに、『あと幾ばくも無い滞在である。僅か二年足らずの奉行所勤めであったが、感慨深いものがある。江戸へ帰り今宵も聞いた暮笛の音色が耳に残っているのだろうか。(否、きっと残っている)
また、「昔日の夢」と想いおこせる日が私には来るのであろうか・・・?』
牧志摩守は「無定河-ー」の漢詩を捩って詠んだことは想像に難くない。 然しながら主人はこの翌年、嘉永6(1853)年8月7日、泉下の客となり普門院に眠る。53歳。病死。(8月7日は墓石による)

*重ねて次の言葉を述べ、「長崎奉行 牧志摩守義制 大宮の郷土史より」は終了とします。
『牧志摩守がジョン万次郎に対して寛大に処置したことの影響は計り知れない。また、牧志摩守が幕末の大事な時期に長崎奉行となり、日本の針路に大きな影響を与えた意義は記憶されてよい事だと思う。(織本重道氏陳ず)』

*次回は「財界の世話役 郷誠之助」の予定です。

〈参考文献〉
※.大宮の郷土史 第28号・29号(創立40周年記念号)大宮郷土史研究会
※.ジョン万次郎漂流記 井伏鱒二著 発行所:偕成社
※.ジョン万次郎に学ぶ ジョン万次郎ホイットフィールド祈念 国際草の根交流センター
※.男爵 郷誠之助君伝 財団法人 郷男爵記念会 代表者:後藤国彦
※.日本の歴史・鎖国 岩生成一著 発行所:中央公論社
※.日本の歴史・開国と攘夷 小西四郎著 発行所:中央公論新社
※.日本の歴史・明治維新 井上清著 発行所:中央公論新社
※.オランダ風説書 松方冬子著 発行所:中央公論新社
※.広辞苑 第四版 岩波書店
※.人名事典 改訂版 編者:三省堂編修所
※.図説 日本史通覧 発行所:帝国書院

*.〈追記〉オランダ風説書の著者、松方冬子氏の夫は故・松方純氏で、松方正義の玄孫(やしゃご)である。また、冬子氏の出身は田安徳川家で、父は徳川宗賢、母は徳川陽子である。尚、冬子氏は現在東京大学史料編纂所の准教授。
因みに、冬子氏の夫・純氏の高祖父は松方正義である。正義公と云えばかつて大蔵省で、紙幣整理などに汗を流した郷純造が浮かぶ。もしかして純氏の「純」が、そこから来ているとすれ因縁を感じるが、いやはや⁈である。                以上

牧義制(まきよしのり)の落款

牧義制(まきよしのり)の落款