大久保利通と郷純造

2016/01/28
 大久保利通から岩倉具視への書翰

明治3年(1870)10月25日、大久保利通(1830~78)は、岩倉具視(1825~83)へ書翰を送っている(下図参照)。
その内容は、郷純造について、大隈重信との懇談を具申した内容であった。

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大久保利通文書 四

大久保利通文書 四

負債取り調べ係への左遷

大久保利通には、「大阪遷都(せんと)」という政治的な構想があった(後述:大久保利通の大阪遷都論)。
この構想を実現するためには、利通が先頭に立ち、国の実権(つまり財政)を握る必要があり、軍(特に陸軍)の力が多大に必要であった。

その為、当時、大蔵省権大丞(ごんのだいじょう)のポジション(省内No.4)で力を振るっていた郷純造の存在が面白くなかった。
なぜなら、郷純造は幕臣の末席に名を連ねた男である。幕臣嫌いな利通には筋が通らなかったのである。

先述の岩倉具視に宛てた書翰に書かれていたのは、「役職に就く純造を左遷か免職処分にする。(下図傍線参照:P91 岩倉具視への書翰)」という内容のものだった。

しかし、その書翰を受け取った岩倉は、大隈重信に打診をするが「郷は大蔵省に不可欠な人材であり、転職等は考えられない」と反対し、同省内「負債取り調べ係」で利通とは折り合いがついた。これは大変な左遷であった。

尚、書翰中「郷坂本に転勤」云々の坂本は、大阪造幣寮(現造幣局)のことである。事実、利通は明治4年、伊達宗城(1818~92)の後を継ぎ、第3代大蔵卿に就いている。

※大久保利通文書 四(下図)
 編者:日本史籍協会
 発行者:東京大学出版会
 昭和3年5月25日初版 昭和43年3月10日復刻

出版:東京大学出版社 代表者:福武直

出版:東京大学出版社 代表者:福武直

利通の去った後、大蔵次官へ

明治6年(1873)利通は2年で大蔵卿を辞め、初代の内務卿となった。
利通が去ったことにより、翌年(7年)1月15日の人事で、純造は「大蔵大丞」に昇進した。そして、同19年、純造60歳、初代の大蔵次官となった。

明治11年(1878)5月14日、内務卿の大久保利通は東京麹町の紀尾井町で、石川県の不平士族・島田一良ほか5人により暗殺される。行年49歳。

世にいう、「紀尾井町の変」であった。

P91 岩倉具視への書翰

P91 岩倉具視への書翰

大久保利通の大阪遷都論

慶応4年1月23日、大久保は高らかに大阪遷都の意見を打ち出した。
「一天ノ主ト申シ奉ルモノハ、カクマデ二有難キモノ、下蒼生(しもそうせい)トイエルモノ(人民)ハ、カクマデニ頼モシキモノ、上下一貫、天下万人感動涕泣イタシ候ホドノ御実行挙リ候事、今日急務ノ最モ急ナルベシ」

その為には断然遷都すべきで、古都・京は「弊習」にこり固まっているから駄目だ。また、玉体(天皇)と人民との間が隔絶している。
かつての仁徳天皇(第16代 313~399)や現代の欧州の君主のような、社会にしたい。それには大阪が一番良いという論法だ。(この項は井上清著、「明治維新」85頁を参考にした)

しかし、明治元年(1868)9月3日、元号が江戸から明治と改められ、10月3日明治天皇は京都から東京え移られた。所謂、東京奠都(てんと)である。

余談だが、京都から新都東京までの御行幸のとき、先駆を務めたのは 大洲藩(おおずはん)最後の藩主・加藤泰秋で、藩兵2個小隊を率いた。また後衛を担ったのは同枝藩の新谷藩(にいやはん)藩主・泰令(やすのり)であった。
特に泰秋は名君で、大洲藩の有終の美を飾ったのである。
なお大洲藩の初代の藩主は、美濃国、黒野城の城主・加藤貞泰である。

つづきは「渋沢栄一と郷純造」でお送りします。
  乞うご期待。近日公開予定。