幕末の郷純造

2016/01/27
大阪町奉行から江戸へ

文久2年(1862)から3年間、大阪町奉行の鳥居越前守と松平勘太郎各々の家老を勤めた。
慶応元年(1865)、郷純造41歳の時、家老を辞して江戸へ戻る。何としても幕臣の株を手に入れるため浪人をしながら譲渡を待ったが売り物は無かった。

若かりし郷純造

若かりし郷純造

運命、そして大政奉還

慶応3年10月、意を決した純造は千葉の成田山に参籠し、37日の断食を行い一心不乱に祈願を込めた。

参籠を終え江戸へ戻ると、恰も帰りを待ち構えていたかのように、撒兵隊(さっぺいたい)・園弥平から株の売り物がでた。神にも祈る思いで、早速、2百5十円で譲り受けた。しかし、時は大政奉還が建白され、慶応3年12月9日王政復古の大号令が発せられた。

大政を奉還した幕府から、翌慶応4年(1868)正月17日、純造に次のように番代りへの辞令がおりたのである。

   撒 兵   園 弥平
  右病気に付願之通御暇申渡す

         郷 純造
  右弥平跡番台並撒兵申渡す    以上

【参考文献】
・男爵郷誠之助君伝 代表者 後藤 邦彦 昭和18年11月30日発行
・日本の歴史 明治維新 井上 清 1974年(昭和49年)7月10日発行

郷純造(64歳)明治21年2月撮影

郷純造(64歳)明治21年2月撮影

晴れて武士となった純造は、僅か半年で大政奉還を迎えるのだが、この半年の幕臣時代が、後の純造の運命を大きく左右するターニングポイントとなったことは間違いない。
そこで純造が経験した「大きな手柄」については、後ほど記事にしたいと思う。