日光東照宮「旅枕」(3)

2015/02/12
日光諸社案内記(畧記)

≪日光案内畧記≫表紙に「定価金壱銭二厘」とあり、表紙共に九頁ほどの小冊子である。

日光諸社案内記・表紙(115×160)

日光諸社案内記・表紙(115×160)

それによると、「抑(そもそも)日光山は栃木県下野国(しもつけのくに) 上都賀郡(かみつがごうり)にして神代(しんだい)よりの霊跡なり 就中(なかんづく)神護慶雲元年(しんごけいうんがんねん) 勝道上人登山し其後元和二年東照宮を祀りしより今日の結構壮観を極めたり

この参詣せん者は先ず日光鉢石町(ばちいしやま)を出で
神橋に山管(やますげ)の蛇橋(じゃばし)という朱塗(しゅぬり)にして
常人(つねびと)の渡るを許さず(中略)

東照宮への道筋は橋を渡りて東方(かた)へ登る中山通りという右の方(かた)満願寺の境内に、両大師を安置す相輪塔なり高三丈余(約9m)」とある。

明治23年4月 印刷 仝月出版
栃木県上都日光丁359番地 印刷兼発行者 鬼平金四郎

日光諸社案内記・発行者 鬼平金四郎

日光諸社案内記・発行者 鬼平金四郎

黒田長政・大鳥居

次の日、清サンは案内記を頼りに歩いた。
官兵衛の嫡男(ちゃくなん)・黒田長政(1568~1623)が、筑前国(現福岡県)からわざわざ運んだ「御影石」で建立した大鳥居の前に立った。
見上げると、大きく横たわる笠石に
『東照大権現』という扁額が目に飛び込んできた。正に圧巻だった。
長政が「関ヶ原の役」後、家康公に受けた感謝の気持ちが伝わってきた。
大鳥居の寸法は、
高さ:三丈二尺(約9.60m)柱石の直径:三尺五寸(約1m)
笠石:四丈五尺(約13m)である。
※一丈≒十尺≒3.0m 一尺≒30㎝ 一寸≒3㎝

お水屋で手を清め、
三代将軍・家光の鑑賞を得たという、『飛越(ひえつ)恭悦の獅子』を見学、諸大名が献納した燈籠を横目に陽明門の前にでる。流石(さすが)陽明門である。威風堂々とした、
そのガタイこそ、日光のシンボルだと清サンは思った。
背負ったリュックから、巻いた美濃和紙と墨入りの筆筒を取り出し簡単なスケッチをすませ先を急いだ。
その東に例の猿門がある。
長い石段を登り家康公のお墓に着いた。長い合掌たった。清サンは肩から力がスーツと抜けていくのを感じた。純造に代わり家康公への感謝だった。

実は叔父・純造は、「武士になって故郷に錦を飾って帰る」と誓い、二十歳で黒野を後にした。しかし、中々武士になれなかった。諦めかけた矢先、
やっと売りに出た「番台・撒兵(さっぺい)」の株を手に入れ徳川の幕臣となった。
維新、半年前のことである。清サンはそんな思いを胸に手を合わせた。

東照宮を出て西に行くと、日光で一番古いと言われる、
二荒山(ふたらやま)神社を参拝し再訪を誓い日光を後にした。

夕刻、日光発4時55分→宇都宮着6時28分 料金25銭 宇都宮に宿泊。
※旅館改良組の名簿:「ての字」、「白木屋支店」とある。

つづく

次号は錦石秋の「日光小誌 全」を紹介します。

二荒山 中宮祠之図 明治14年4月13日

二荒山 中宮祠之図 明治14年4月13日

ここで一言(1)

黒田官兵衛の子:長政は数奇の生い立ちを経る。

長政(松寿丸)が幼少の折り、信長は官兵衛が裏切った(※1)と思い込み、人質としていた松寿丸の殺害を秀吉に命じた。

松寿丸を預かっていた竹中半兵衛は「官兵衛に限って二心は無い」と信じ
命令に従わなかった。(岐阜県垂井町・五明(ごみょう)稲荷に匿われていた松寿丸が手植えした大銀杏が今に残る:下写真)
黒田長政は命の恩人半兵衛に報恩の念を抱き、またその子竹中重門にも
受けた恩と感謝を終生忘れなかった。

(※1)人質:有岡城(旧伊丹城)の荒木村重(1535~1586)は
信長(1534~1582)に謀反を起し有岡城に籠城した。
世に言う「有岡城の戦い」で天正6年(1578)から約1年続いた。

官兵衛の主君・小寺政職(こでらまさもと)もこれに呼応しようとした為、
官兵衛は信長に申し出て一人説得のため城内に入った。
然し、話し合いは不首尾に終り逆に官兵衛は土牢に長期幽閉された。
長い土牢生活で官兵衛の頭髪は抜けおち、また足を痛めた。

信長は官兵衛が裏切ったと思い込み長政(松寿丸)の殺害を命じた。
然し、長政は生きていた。

信長は何時、何処で長政の生存を、どんな思いで知ったのか(私は)
解(し)らない。

官兵衛33才、松寿丸11才のことで、本能寺の変、3年前のことであった。

岐阜県垂井町 五明稲荷と大銀杏(2015.2.11)

岐阜県垂井町 五明稲荷と大銀杏(2015.2.11)

ここで一言(2)

昨年(平成26年)末「世界三大古戦場に関ヶ原がのろし」と
新聞の一面に題字が躍った。

江戸時代前期に山鹿素行(やまがそこう)(1622~1685)が著した
『武家事紀』は歴史書で武家故実書である。
素行は山鹿流兵法の創始者であり、山鹿流陣太鼓の考案者でもある。

素行が書いた武家事紀の中に、関ヶ原合戦図がある。
東軍・家康に与し、行動を共にした者に下記の三武将がいる。
・竹中重角(美濃国不破郡 5000石)
・加藤貞泰(美濃国黒野城 40000石)
・黒田長政(豊前国中津城→戦後福岡初代藩主 52万石)

三武将は丸山(岡山)烽火場(のろしば)辺りに陣を張り
三成の西軍と戦った。
尚、重角と貞泰は義兄弟であり
いつも二人は行動を共にしていたと思われる。                                  

岐阜県垂井町 竹中半兵衛の陣屋跡(2015.2.11)