渋沢栄一と郷純造(後)

2020/05/23
純造と栄一の維新

孝明天皇の崩御により慶応3年正月9日、明治天皇が践祚(せんそ)され皇国日本の夜明けがきた。日本に於ける維新は常に王政復古である。

【純造の維新】
鎮台府からの再三のお召を拝辞して後、「(前略)・・・泣血昧死奉歎願候 徳川亀之助(家達)家来 郷純造」と,辞退の陳情書を奉呈したが、明治政府の許すところとならなかった。

明治元年8月5日附けを持って、鎮将(台)府の弁事から徳川亀之助重役に宛、純造君召し出しの御沙汰があり、又、直接純造にも陸軍頭・阿部邦之助から、一方的に「会計局組頭」の辞令の通達があった。
これ以上拝辞するのは徳川家の為にならずと考え出仕を決意した。純造43歳であった。

尚、「辰ノ口伝奏屋敷跡」の会計局には江戸詰めとして、次の高官が配属されていた。
判事:江藤新平、島義勇(よしたけ)、北島秀朝
権判事:坂本政均(まさひら)、中村清行

その他の主要高官も殆んどが「薩長土肥」が占めていた。

【栄一の維新】
栄一が"維新″を知ったのはフランスのパリであった。十五代将軍・徳川慶喜の名代で弟昭武の随伴でパリ万博を済まし、引き続き昭武公留学の為残留していた時である。帰国命令が届き横浜港に帰朝したのは、明治元年11月中旬であった。
既に同年8月27日には明治天皇の即位があり、9月8日には明治と改元され、江戸も東京となった。
栄一はパリ出張の残務整理に慌ただしい毎日だった。昭武一行の旅費などを〆て、残額二万円を静岡藩の勘定方組へ届けた。勿論それらの間を縫って血洗島の「中の家(うち)」へ帰った。6年振りの我が家で父の市郎右衛門、母えい、妻の千代そして娘の宇多が迎えてくれた。洋行帰りの栄一は村人のみならず、近郷の人々には知れ渡っていた。特に6歳になっていた愛らしい宇多の顔を見る時、申し訳ない気持ちで一杯だった。

駿河(現、静岡県)の宝台院に蟄居中の慶喜を訪ねた。会うことを禁止されている弟昭武の手紙を携えての面会と同時に、自身の身の振り方も兼ねていた。
「これからは自分自身の道を歩んで行きなさい」と諭された栄一は、静岡藩の商法会所で商社と銀行を合わせた業務を立ち上げた。
所が明治2年(1869)10月新政府から同藩に栄一の招状が届いた。

東京御着輦(れん)日本の歴史・明治維新表紙より(奥の二重橋からお入りになる)

東京御着輦(れん)日本の歴史・明治維新表紙より(奥の二重橋からお入りになる)

栄一の大蔵省出仕

明治3年4月会計局へ出仕する橋渡しをしたのは純造であった。其のあたりの事が書かれている記事があるので節録しておこう。
『実業之日本社』明治42年(1909)発行 P.22より(※.次々絵参照)

≪渋沢男(爵)が始めて世に出でし当時の大元気≫
                  伯爵 大隈重信
△「((渋沢)男を余に推薦せしは郷君」
◎「当時渋沢君は旧幕臣で、明治政府には出ないといって居った。我輩が大蔵省に 入って人材を求めて居ると、郷純造君が洋行帰りの渋沢君を推薦してきた」
◎「郷氏はなかなか人物を見る眼があった。氏が薦めてきた人物は皆よかった。前島君(密男爵)も其一人である」
◎「それで郷君の推薦なら使ってみようと話してみると、渋沢君は中々頑固で容易に出仕を肯(がえん)じない」
△余は如斯(かくのごとく)にして男を説き伏せり
◎無論両刀を帯びて一つ間違ったら一本参ろうという権幕、家にいる時でも一刀だけは腰より離さないという勢いで会うといっても容易に出て来ない。
◎説得するのになかなか難しかったが、吾輩は、「八百万(やおよろず)の神が寄り合って新日本を作るのだから君も一つ神様になって呉れ」と云って遂に承諾さした。

純造は、大隈・大蔵大輔(たゆう)へ栄一を推薦したのであるが直ぐには応じなかった。「散髪脱刀令」(明治4年8月9日)以前の為、栄一は両刀を腰にたばさみ大隈と対談をしたという。(丁髷はパリでっ切っている)

大隈重信が郷誠之助(純造の倅)に語った言葉として、
「俺たちは何しろ議論ばっかりで、事務がサッパリ判らぬものだから君の先代にやって貰った。そして、渋沢や前島(密)を幕府の方から推薦したのも先代だった」と。

明治3年(1870)10月25日、大久保利通は大隈との会談後、岩倉具視へ郷純造を大蔵省から「断然免職か転勤」にして貰いたい旨の内容の書翰を送っている。何故か疑問が残る。
※.大久保利通文書・四「岩倉具視公への書翰」明治3年10月25日
   (岩倉家文書)       発行者:東京大学出版会発行
※.No.4の写真参照
 

大蔵省租税正時代(明治3年4月)明治を耕した話より

大蔵省租税正時代(明治3年4月)明治を耕した話より

大久保利通参議 大蔵省に入る

明治4年(1871)大蔵省に大久保利通が入省した。伊達宗城(だてむねなり)の後の大蔵卿(今の大臣)で省内トップである。
純造が入って4年目(下の純造の履歴※.c参照)栄一が入省した(同※.a)翌年のことで、省内は張りつめた空気が漂った。又この年、桂小五郎(水戸孝允)は同郷(長州藩)の井上馨(※.b)を、岩倉具視に大蔵省へ推薦してきている。

栄一が入省した時の事を記しておこう。
大半の吏員から不平が出た。特に純造と同じ年で2年入省組の、玉乃世履(たまのせいり)からは、「郷君!我々より上の職に就いて入った渋沢のことはケシカランどう思うか?」と言ってきた。他にも不満分子はいたが、純造は意に介さず粛々と仕事を続けた。

今度は維新の三英傑の一人、大久保利通である。純造は既に昨年(同3年)の暮れ大隈から内々に呼ばれ、事のいきさつを聞いてはいたが要領は得られなかった。只、郷をよそへ出すようにと強く言われたそうだ。

ここで前述の玉乃の話に戻ろう。「実業之日本社」にその顛末の記事が載っているので記しておこう。大隈重信は、
◎「処が我輩が旧幕臣の渋沢君を用いたというので、旧幕臣中にも新政府中にも反対があり、殊に大蔵省の官吏連は大不平であった。彼等は殆んどがストライキという様な勢いで、あんな壮士みたいな幕臣を我々の上(※.a)に抜擢するとは何事だと非常にやかましい談判であった」。
◎「其の中でも最も猛烈に反対したのは玉乃世履(後大審院長になるも自殺せり)であった。渋沢君を玉乃の上に抜擢したと云って非常に怒った」。
◎「其の頃は井上馨(※.b)もまだ大蔵省へ入って居なかった。我輩は四方の反対を抑えてマー見て居れといって、渋沢君に思う存分働かしたが、その働き振りは実に精悍(せいかん)なものであった」。
◎「当時の大蔵省は、財政のことは無論今日の農商務省(農林・通産)、逓信省、又は司法省(郵政・法務)の或る一部の仕事、それに地方行政なども持って居たので繁劇(はんげき)なる事は非常なものであった」。

△先の反抗者が謝罪に来た。
◎「考えもよく、計算も立ち、それに熱誠を以て事に当たられたから六ヶ月も経つと先に反対した者等は大いに驚いた」。
◎「今度は不平党が謝罪に来た。最先に反対したのも玉乃であったが、最先に謝罪に来たのも玉乃であった」。
◎「彼等は曰く『渋沢君はとても我々の及ぶ所でない、誠に得難き人材である。先に無礼な事を言ったのは我々の思い違いであって実に相済まぬ』といって後には皆渋沢君と懇意な間柄となった」。

純造は溜飲が下がった。
今宵の晩酌は好物の守口大根の樽漬けで、家内のシゲと酒を酌み交わした事は想像に難くない。(※.黒野の在所から定期便で一貫(約4㌔)の守口漬けを、樽ごと送っていた。)

以下、純造の21年間の官位履歴は次のようで或る。
《純造官位履歴》           《備考》
・明治元年8月5日会計局に出仕    辰ノ口伝奏屋敷跡にあり
・明治2年7月ー大蔵小丞       官制改正、大蔵省と称す
     8月           大蔵卿:松平春嶽
     9月           大蔵卿:伊達崇城
  ・明治3年8月ー大蔵権大丞    ※a.4月渋沢栄一大蔵省租税正
     8月             英貨百万ポンド外債成立
・明治4年7月ー戸籍大佑        5月貨幣条例制定さる
  同上               7月廃藩置県
  同上             ※b.井上馨大蔵大丞
    12月             大蔵省券発行
  同上             ※c.大蔵卿:大久保利通
・明治5年2月ー※d.負債取調係    2月土地売買禁止令解く
     2月ー大蔵小丞
     6月             品川~横浜間鉄道開通
・明治6年10月ー国債寮御用掛     7月地租改正条例布告
  同上 5月          ※e.渋沢栄一、井上肇共に辞す
  同上             ※f.大久保利通辞す
  同上             ※g.大蔵卿:大隈重信
・明治7年1月ー大蔵大丞
     6月ー兼任国債頭
・明治10年1月ー大蔵大書記官国債局長
・ 同上 10月-大蔵卿出張中代理
・明治13年             大蔵卿:佐野常民
・明治14年11月-書記兼国債局長 ※h.大蔵卿:松方正義
・明治15年6月-大蔵省三等出仕
・ 同上   -大蔵卿心得
・明治17年5月-主税局長
・明治19年3月ー大蔵次官
・明治21年11日 退官
                 (以上は郷誠之助君を参考にした)
 

実業之日本社(明治42年7月号)より

実業之日本社(明治42年7月号)より

大久保利通 信長に似る⁇

明治3年(1870)10月25日、利通は大隈重信に面会をし大蔵省の改革を勧めた。そしてその足で、岩倉具視宛に、省の変革と「郷権大丞を断じて免職か転勤に候」と名指しで純造を叱責した書翰を送っている
これは利通の大蔵省へ入るための一つの布石であると思われる。これを受けて大隈は奇妙な役替えを純造にしている。

・明治4年7月29日-戸籍大佑   ※.大蔵卿:大久保利通
・  5年2月13日-負債取調係
・    2月29日ー大蔵小丞
・    3月8日-戸籍権頭
・    6月2日ー大蔵省四等出仕
・ 6年10月7日-国債寮御用掛  ※.大蔵卿:大隈重信
・ 7年1月15日-大蔵大丞
この目まぐるしく変わる人事は、何を意図としているのか良く解らない。只言える事は「利通の目先を変え焦点をぼかす」ことではないだろうか?

純造は一兵卒になってもよく耐えた。頑張る純造にいつも声を掛けてくれたのは、大隈と松方(正義)だった。彼等は純造が、裏金の陣笠を冠り「工兵差図役頭取」で大手門を護り、無血開城に寄与したこと。又、大阪町奉行の家老職を勤めたこと、苦労をして幕臣になった事など全て見てきている。

 ※.官位について記しておこう。
  卿:大臣、大輔(たいふ):局長、小輔:次官、
  大丞:部長、小丞:課長
 尚「佑」は神祇省(しんぎしょう)の位称では? 又「権」は準の事。    (官位のことは筆者の記憶の範囲ですご了解ください。)

利通は大蔵省に入ろうとした目的は二つあると考えられる。
1.軍資金の確保
2.大阪遷都論・天下
この二つから信長が取った施策と類似点が見えてくる。

ここで筆者は大胆な仮説を立てます。
1.に就いては、権力を得るには軍資金を確保して、兵を集め「駐屯兵団」の形成を目指す。いわゆる富国強兵である。
◎これは、信長が「兵農分離」を敢行し専業軍隊を持った事・・・似る。

2.の大阪遷都論は、江戸末期に利通が高らかに建白した論法で、京都の旧態とした因習を変え都を大阪に移す。
信長は尾張を平定後上洛し、将軍・足利義輝に謁見した。➡「天下布武」を目指す足掛かりにした。
◎元年3月、利通は明治天皇の大阪行幸を大々的に敢行した。・・・似る。
2.は大蔵省に入る前の事だが「省」を掌握し、いつかは天下を取るという野望をずっと持っていたに違いない。
何れも天下取りを世に知らしめようとした、「行幸」と「上洛」であった。
利通の大阪遷都論は、前島密(ひそか)の東京遷都論に軍配は上がったが、どちらも評価の高い政論ではある。
 

大久保利通 岩倉への書翰(明治3年10月25日)

大久保利通 岩倉への書翰(明治3年10月25日)

利通は「リアリズム」な人

大久保・岩倉のコンビは、常に「不即不離」の関係を取り、天皇の権威を利用し、王政復古を実現した。
薩摩藩士の利通は幕臣嫌いで有名であった。と、同時に徹底したリアリスト(現実主義者)であり、あまりブレーンが居なかった。容姿もヒゲの伸ばし方も別格で、渋沢の「壮士然」とは真逆であった。

明治6年(1873)渋沢栄一小輔と井上馨大輔は、「金」のことで大久保と衝突し二人は下野した。又、大久保も続いて大蔵省を退官した。

明治10年(1877)かつての同士西郷とは袂を分かち、西南戦争で隆盛は敗れて自刃をした。享年50歳。
又、翌11年、大久保も馬車で皇居へ向かう途中、紀尾井町の坂辺りで、不平士族に依って暗殺された。享年49歳。

然し、二人の巨人は墜ちたが「明治」はここから飛躍的に伸長して行ったのである。

『渋沢栄一と郷純造』は一旦閉めますが、(後)編の続きとして、
「渋沢の論語と算盤」・「渋沢国立十六銀行を救う」
「松方正義と純造の阿吽の呼吸」「純造と五代友厚書翰」そして、
織本重道氏「大宮の郷土史」・長崎奉行牧志摩守義制を中心として の予定です。

〈参考文献〉
※.明治を耕した話 渋沢秀雄著 発行所:(有)青蛙房(せいあぼう)
※.渋沢栄一を知る辞典 編者:公益財団法人 渋沢栄一記念財団 東京堂出版
※.論語と算盤 編者:公益財団法人 渋沢栄一記念財団 発行所:清興社
※.男爵 郷誠之助君伝 財団法人 郷男爵記念会 代表者:後藤国彦
※.人間・郷誠之助 後藤国彦校閲 野田禮史著 発行所:今日の問題社
※.日本の歴史・開国と攘夷 小西四郎著 発行所:中央公論新社
※.日本の歴史・明治維新 井上清著 発行所:中央公論新社
※.オランダ風説書 松方冬子著 発行所:中央公論新社
※.戦国・幕末の群像 織田信長 発行所:旺文社
※.歴史REAL 幕末維新入門 発行所:洋泉社
※.広辞苑 第四版 岩波書店
※.英雄たちの選択 選,渋沢栄一知られざる顔 "論語と算盤" を読み解く nhkbsプレミアム
※.人名事典 改訂版 編者:三省堂編修所
※.図説 日本史通覧 発行所:帝国書院
※.朝日ジュニアブック 日本の歴史 発行所:朝日新聞社
                        以上

尚、「実業之日本社」明治42年7月号(部分)をお送り戴いた
国立国会図書館様、仲介の労を下さった岐阜県立図書館様には御礼申し上げます。
 

大久保利通(国立国会図書館蔵)

大久保利通(国立国会図書館蔵)

「日本橋の御高札」二枚を見て

「日本橋の御高札」の絵は、三代・広重が描いたもので、「日本の歴史・明治維新」のページを開くと直ぐに載っている。
こんな説明書きがあります。
明治元年(1868)7月、江戸は東京と改称され、10月には江戸城は皇居に定められた。倒幕戦争を勝ち抜いた新政府は人心を一新すべく、五条誓文を発布し、人倫の道、切支丹の禁止などを示した五枚の立て札を幕府の高札とかえた。ここは日本橋西詰め高札場である。
この高札場は、徳川家康の江戸入部以来、ほとんど毎日、幕府の布令が掲示されてきた。いま、新式訓練を受けた兵士たちが菊花章の旗をおし立てて、太鼓を鳴らしながら、市中に布令を達して歩いている。
洋服姿の兵士が日本刀をさし、ちょんまげ男も行進を眺めているのは、過渡期の風俗の面白さである。明治元年三代広重筆 東京名所図会より

下の東海道五十三次「朝之景」と合わせてご覧ください。

大蔵省租税正時代(明治3年4月)明治を耕した話より

日本橋の御高札 三代広重 東京名所図会より明治元年

下は初代・歌川(安藤)広重の「東海道五十三次」の起点である日本橋の「朝之景」である。
朝もやをつき江戸城を出立した参勤交代の行列が、国元の藩へ帰るところだ。向こうの東岸、魚河岸で仕入れた魚屋が、大名行列に追われ急ぎ足で天秤棒を担ぎ、商いに行く風景で、朝の賑わいを見せている。
日本橋に始まり五十三の宿場を、終点の京都三条大橋までを描いた版画で、初版は天保4年~5年(1833~34)に刷られた。
日本橋西詰め、左手(北側)に高札場が見えます。

東海道五十三次 日本橋朝之景 初代広重(筆者蔵)

東海道五十三次 日本橋朝之景 初代広重(筆者蔵)

同上部分詳細 江戸日本橋高札場

同上部分詳細 江戸日本橋高札場

明治天皇東京行幸・大洲藩(おおずはん)が担う

元年9月、明治天皇は京都から東京へと行幸が行われた。その「前衛」と「後衛」の栄を賜ったのは、伊予(愛媛県)大洲藩とその枝藩であった。

大洲藩十三代藩主・加藤泰秋(やすあき)は、二個小隊を率いて前衛を、後衛も又、大洲藩・枝藩が担った。

馬上豊かに秋風を切り、「蛇の目紋」の大旗をなびかせ、先導する雄姿は 大洲藩最後の藩主泰秋で、ここに有終の誉(ほまれ)を飾ったのである。

大洲市民は、名君・泰秋の行動に惜しみない拍手を送ったであろう。そんな、心意気に大洲市民は答えたのであろうか、念願の大洲城を平成16年(2004)に、全て木造により釘は一本と使わず忠実に再建した。そんなお城故に、国の重文になる日もそう遠くはないだろう。一見の価値ある素晴らしいお城である
総工費は十数億円で、市民は約その半分を負担したと云う。凡そ、四万人強の人口で、これだけの大事業を成し遂げた、大洲市民の気概と粘り強さに、敬服と拍手喝采を送らずには居られない。
又、大洲藩より「中江藤樹」と云う日本陽明学の祖を輩出している。

初代大洲城主・加藤貞泰は、黒野城・四万石の城主であった。関ヶ原の役(1600)の後、国替えで伯耆国(ほうきのくに・鳥取県)米子城主六万石となり、その後大洲城主に転封(てんぽう)となった。(六万石は安堵)
父、光泰は、太閤秀吉公の下、甲府(山梨県)二十四万石の領地を有していた大名であったが、朝鮮出兵で石田三成と意見の食い違いで亡くなる。
(この続きは「黒野城跡」のブログをご覧ください)

尚、数年前、黒野城研究会の面々(30名ほど)と、大洲城を訪問したことがあります。因みに、黒野城跡は筆者宅から徒歩5分の所にあります。御来城を歓迎致しております。

※.下の写真は大洲市20周年誌から転写したものです。
大洲藩のシンボル「蛇の目紋」の旗が馬上に揺れ、今正に、門をくぐろうとしている。

大蔵省租税正時代(明治3年4月)明治を耕した話より

輦(れん)前方左蛇の目紋が見える(大洲市20周年より)

晩秋の大洲城 前を走る予讃線の電車

下の写真は2004年に復元された大洲城の前を走る予讃線の電車。
たき火の煙がモヤとなり、晩秋の花ススキが一層哀愁を誘う。
手前に肱川(ひじかわ)が流れ、川面にお城と電車が映るコントラストは、これ以上ない“絶品”である。カメラマンに感謝です。

※.この写真は長良の友人・坂本幸雄様から提供頂きました。坂本様とは、大洲城へご一緒した“戦友”で、この予讃線に乗り大洲へ行きましたね!
尚、下の記事は写真とは関係ありません。
                                

予讃線とお城 文芸春秋より

予讃線とお城 文芸春秋より