渋沢栄一と郷純造(続)

2020/06/01
渋沢の「論語と算盤」

論語と算盤を一言で表わすと、論語=道徳+算盤=経済(商売)である。 明治6年(1873)5月、渋沢は大蔵省を退官した。予てから準備・草案をしていた、国立第一銀行の開設に取り掛かり、同7月に開業をした。これを皮切りに銀行の神様、資本主義の父として華々しい活躍をしていく、第一歩を踏み出した。
渋沢は6,7歳から父・市郎右衛門より四書の『大学』『中庸』『論語』の素読を学び、隣村・手計村で従兄の尾高惇忠(藍香)に『孟子』を含め、四書五行を教わった。『論語』を辞書で引くと、
「四書の一。孔子の言行、孔子と弟子・詩人らとの問答、弟子たち同士の問答などを集録した書。20編(下略)」とある。
では、渋沢の云う論語と算盤とは如何なるものなのか、それは渋沢栄一の"十ケ章”ともいうべき、壮大で且つ緻密な理論であり正に「先人訓」といえよう。

第一国立銀行 明治30年(1897)頃〈渋沢栄一を知る辞典より)以降は渋沢辞典という

第一国立銀行 明治30年(1897)頃〈渋沢栄一を知る辞典より)以降は渋沢辞典という

渋沢の”十ケ章“

第1章.処世と信条:論語とソロバンは、はなはだ遠くて近いものである
       「士魂商才」一武士の精神と商人の才覚を併せ持つ
第2章.立志と学問:自ら箸をとれ
          社会と学問の関係は机上の教え通りには行かない
第3章.常識と習慣:常識とは智恵、情愛、意志がバランスよく成長
          正しい立場に近づき、間違った立場から遠ざかる道
第4章.仁義と富貴:仁義=道徳で富貴=金 正しい方法でお金を得るは良
第5章.理想と迷信:人生に「趣味」を持つと良い
          道徳も「進化」して行っても良いのでは
第6章.人格と修養:王陽明の「致良知」-心の素の正しさを発揮する
        「忠」「信」「孝弟」-「仁」が重要※.1
第7章.算盤と権利:「論語」の教えは自分を律するのが主眼
          キリスト教は権利思想を押し付ける教え
第8章.実業と士道:武士道の主要は「正義」「廉直(れんちょく)」           「義侠」「敢為(かんい)」「礼譲」※.2

第9章.教育と情誼:教育も親孝行も「敬愛」が大切
          中江藤樹と熊沢蕃山のような子弟関係を築く
第10章.成敗と運命:自分が出来る事を全てしたうえで運命を待て
           細心にして大胆であれ
※.1.第6章の補足
・「忠」-良心的であること・「信」-信頼されること
・「孝弟」ー親や年長者をうやまうこと 以上を重視するのは
・「仁」で物事を健やかに育むと云う、最高の道徳を身に着けるため、また社会に生きていくうえで、一日も欠かせない条件なのだ。
※.2.第8章の補足
・「正義」ーみなが認めた正しさ
・「廉直」-心がきれいでまっすぐなこと
・「義侠」-弱きを助ける心意気
・「敢為」-困難に負けない意志 
・「礼譲」-礼儀と譲り合い
            以上渋沢栄一論語と算盤より
渋沢は「私は青年時代から儒教に志してきた。その始祖にあたる孔子や孟子といった思想家は私にとって生涯の師である」と、語っている。

銀行の話に戻そう。明治5年(1872)イングランド銀行の重役ギルバードが提唱した「銀行業社の心得」が引用されていた。
銀行業社は
一.丁寧にして、しかも遅滞なく事務をとることに注意すべし。
二.政治の有様を詳細に知って、しかも政治に立ち入るべからず。
三.その貸付たる資金の使途を知る明識あるべし。
四.貸付を謝絶して、しかも相手方をして憤激せしめざる親切と雅量とをもつべし。
栄一は努めてそれらをも身につけて行った。

「東京都健康長寿医療センター」の起源は古く江戸時代に遡る。徳川11代将軍・家斉(いえなり)時代の老中筆頭になった、松平定信の設けた「共有金」という制度が始まりで、明治になって「養老院」となった。
その事業に栄一は、明治6年から昭和6年まで57年間勤め続けた。長きにわたり頭の下がる思いだ。
第一銀行(現みずほ銀行)にはそれに次ぐ41年間頭取を勤めた。そして、生涯凡そ500もの事業に携わってきた。
「銀行の神様」「資本主義の父」と云われる所以(ゆえん)はそこにあるのだろう。

渋沢栄一のご子息、秀雄氏がお書きになった「明治を耕した話」の中の一節を お借りしてこの項を閉めたいと思います。
「父は新興日本の目ざした『文明山』の頂上へ、民間の一先達として
『論語と算盤』なる金剛杖をつき、"お山は晴天六根清浄”と唱えながら登りつづけたような気もする。もし身贔屓(みびいき)の思い上がりだったらお宥(ゆる)し願いたい」。

渋沢栄一像・常盤橋公園内(渋沢辞典より)

渋沢栄一像・常盤橋公園内(渋沢辞典より)

渋沢栄一「第十六国立銀行」を救う

【大蔵省の検査】
明治10年(1877)10月1日に開業した第十六国立銀行(岐阜市)は、全国に出来たナンバーバンク153行の一つで、現在の(株)十六銀行の前身である。
翌11年5月資本金を5万円から10万円に増資した。同8月8日、大蔵省銀行課長・岩崎小二郎は検査のため来岐し、松屋町にある頭取・渡辺甚吉の弟・寅吉の、自宅兼店舗に入った。生憎、頭取は出張中で支配人の上松武次郎が応対した。
岩崎課長は数か月前に、部下の「遠藤敬止」の下検査を済ましており、万全との思いで検査に臨んだが、五万円の準備金の内、実に42.700円の不足金額が発覚した。検査は延々9時間に及び、早急に善処するように指示して終了した。

同10月2日、岩崎課長は状況を危惧し、部下の「外山修造」らを、大阪出張の途上に十六銀行へ立ち寄らせた。だが、又も準備金9000円余の不足と、金銀有高でも11.000円余の不足が発覚した。
外山脩造は、琵琶湖湖上の渡航船から、「私共の手に負えるところではない」旨の手紙を送った。
二度にわたる「検査不合格」の報告を受けた課長の岩崎小二郎は、
「最早我々の知るところに非ず鎖店止む無し」と見限った。

当行は県令(知事)の小崎利準に歎願もし、又、資金の調達に奔走をした。

【渡辺甚吉頭取の歎願】
明治11年10月11日、渡辺頭取(23歳)は一人上京し、岩崎小二郎課長宅を訪い検査の不都合を謝罪した。然し「私に於いて保護すべき道は何も無い国元へ帰り何分の沙汰を待つべし」と、岩崎は言下につき放した。
翌12日渡辺は岩崎課長を再訪し、大蔵卿・大隈重信宛の願書を持参し、懇願したが却下された。身体極まった渡辺頭取は、国立第一銀行の渋沢栄一頭取に、身を切る思いで救いを求めた。
渋沢は十六設立当時から指導を仰いだ師匠である。
もうこれで駄目なら・・・渡辺は腹をくくった。若き頭取の頬に涙痕が光った。
【渋沢栄一の書翰】
大隈重信・大蔵卿(現大臣)に渋沢は次の書翰を認めた。
「銀行課の検査で不都合が生じ、鎖業などの譴責(けんせき)があるのではないかと、心配の余り小生より内々歎願してくれる様に申し出があった。私情をもって憐憫(れんぴん)を乞うわけではないが、頭取の渡辺甚吉は岐阜の豪商で業績も良く務めている。(中略)過分の懇願ではあるが、同行の心情を察すると黙止に耐えかねて実情を申し述べお取り計らいを願う次第である」。                    (原文のまま)
渋沢の書翰が功を奏し翌、明治12年3月許可がおりたのである。
かつて大隈は駿府(静岡県)に下野していた渋沢を「三顧の礼」を尽くして、大蔵省に入れた経緯がある。そんな渋沢の頼みに首を横には振れなかった。
この時大蔵省には「国債局長兼大蔵卿出張中代理」の郷純造がいた。勿論一連のことは報告を受けて知っていた。が、例え同郷の好みとはいえ口出しはできない。越権行為でもすれば即、自身のクビが飛ぶことは分かっている。純造は極秘に、かつての同僚で上司の渋沢にお願いをした事は想像に難くない。
純造も自分の生まれ故郷に出来た銀行であり、周りの配慮か16番目という異例に早いナンバーである。何とか存続してほしいと云う気持ちは誰よりも強くもっていたはずだ。
渋沢は元来そういう事を嫌うタイプだが、渡辺頭取の悲壮な姿に「黙止に耐えかねて」正に憐憫を乞うたのであった。

十六銀行の創立時、渡辺頭取(22)を始め多くの役員は二十代前半の若さであり、「子供銀行」と揶揄されたこともあった。また全国に出来た国立銀行の殆んどが、公家や華族・士族が出資者であった。彼らは「公債」などを出資する事で経営者となった。だが、残念ながら岐阜にはそういう華子族は居なかった。だから、資金不足がおきたのもやむを得ないことであろう。
しかし、当時からのナンバーバンクは現在、十六銀行(岐阜市)を始め、 十八銀行(長崎市)七十七銀行(仙台市)百五銀行(津市)そして、百十四銀行(高松市)の、五行を数えるのみである。(八十八銀行は除く)
幾多の激動期を乗り越えて来れたのは、勤勉で立派な社員が頑張ってきたこと、渡辺頭取の不屈の精神と、渋沢栄一翁のお力添えがあった事も大きな要素であろう。

十六銀行の頭取、渡辺家は江戸時代から続く豪商で、代々織物業を営み「織甚」と呼ばれた。他に酒造業も営み加納藩の御用達商人として、城内への出入りが許されていた。渡辺は大正11年(1922)に退陣するまで、45年の間頭取を勤め上げた。だがその3年後甚吉は永眠する。享年70歳。

※渋沢栄一の書翰の原文を提供頂いたのは、三田洞の友人で十六銀行、OBの服部高信様です。氏にはいつも物心のご支援を頂戴し感謝しております。
尚、この項は、中山道・加納宿66号「黒野村の銀行」の拙稿に加筆修正したものです。

下の「順理則裕(じゅんりそくゆう)」は、渋沢栄一の揮毫(きごう)で、十六銀行が昭和6年に建てられたときに贈られたもので、栄一の座右の銘でもある。その意味は、「理二順エバ則チ裕ナリ慾二従エバ惟レ危シ」である。 今も本店役員室に飾られ見守っている。
               (以上は、十六銀行百年史を参考にした)

渋沢栄一の揮毫「順理則裕」十六銀行百年史より

渋沢栄一の揮毫「順理則裕」十六銀行百年史より

松方正義と郷純造 阿吽の呼吸

明治14年(1881)11月、大蔵卿はわずか1年ほど勤めた「佐野常民」から、「松方正義」に変わった。純造も書記兼国債局長の要職に就いた。
【紙幣整理(鎖却)】
政府(大蔵省)は紙幣整理はどうしても急がねはならない重要な課題であった。過去に乱発された紙幣を回収し、国立銀行を廃止して中央銀行(日本銀行)方針を確立し、紙幣の一本化を図ることだった。純造の倅・誠之助はこんな談話を残している。
「我が家で伊藤(博)、松方、大隈などがよく集まって議論をしていたのを覚えている。確か伊藤公が憲法調査で海外へ行く前だった。伊藤公は『紙幣整理なんか出来ない』と云う。父や松方は出来るという。伊藤公が海外から帰ってくるまでにはきっとやって見せると云って、頻りに議論をしていたようだ」。
  伊藤公らの海外出張は、明治15年(1882)3月に横浜から出港し
  翌16年5月に帰国した憲法調査である。
然し、紙幣の整理は複雑でざっと書き出しても、
・明治通宝(政府が発行した紙幣)ーこれは、明治12年(1879)に回収?
・太政官札ー明治元年(1868)発行
・民部省札ー  2年     〃
・大蔵省券ー  4年     〃
・各国立銀行紙幣ー5年・・・兌換(だかん)紙幣と不換紙幣等あり。
特に明治10年、西南戦争の戦費は¥4.156万円で、この出費は大変な痛手で後々まで尾を引いた。
日本銀行は明治15年10月10日に開業し、紙幣発行は日銀一本とした。が、紙幣整理は順調に進んだが、何といっても国立銀行紙幣は最後までネックだった。
松方の紙幣整理に就いては、横浜の原善三郎や茂木惣兵衛に毎日電報で、「銀」を集めさせたという。
純造は過去5人の大蔵卿に仕えてきたが、何故か馬が合うというか、気が合ったのが松方卿であった。純造は「特に紙幣整理については最初から説を変えないので余程やり易かった」と、述懐している。

大隈重信卿は、西南戦争で紙幣を増刷した結果、急激なインフレが発生した。その責任をとり大蔵省を去ることとなった。
一方松方は、紙幣整理に掛かる費用の捻出の為、緊縮財政を採った事など、デフレとなり、租税収入が減るという結果となった。悪循環で所謂、「松方デフレ」が起きた。又、コレラ病の発生も長引き、より一層拍車を掛けた。然し、純造は「金禄公債」なるものを作り出し、難局を乗り切った。

尚、このことについて、井上馨侯の「世外侯事歴ー維新財政談」で、
渋沢栄一は「・・・郷さんがすっかり担当して士族の禄制というものを、所謂、『金禄公債』じゃネ、公債にすると云うような事をなされた」と、述べている。
松方は流石、薩摩藩士の士魂を持った政治家で、二度の総理大臣に就いたことは周知のとおりである。
又、純造はその後、明治17年(1884)主税局長、同19年初代・大蔵次官となり、同21年(1888)病を以て退官。満63歳。
【純造の余生】
隅田川畔に別業(別荘)を築いて「随意荘」と名づけ、悠々自適した。そこには隅田川の水に触れ、遠く筑波山を仰ぎ十二勝の佳景があった。
明治22年(1889)5月、都下の名流を迎えて退官の雅宴を開き、「随意荘雅集録二巻」を披露した。題字は三條梨堂(実美)、序は松方海東(正義)、賀詞は伊藤春畝(博文)、榎本梁川(武揚)らで、又、巌谷一六(修)の随意荘集記が収められている。
他に印癖を有し、古印を収集し松石山房印譜六帙二十六冊を完成し同好の諸兄に配った。他に絵を安田老山に和歌を鈴木重嶺に学んだ。

純造は郷土への報恩も忘れることは無かった。小野(この)正法寺の観音堂や黒野古町に多賀神社を建設した。又、黒野小学校の基本財産に、その他黒野墓地を含め凡そ、2町歩半(約8000坪)以上の土地を寄付している。
そんな純造も明治43年(1910)12月2日永眠する。享年86歳。
正二位勲一等瑞宝章、貴族院議員、男爵。

純造の葬儀案内状 郷清三郎宛(筆者蔵) 

純造の葬儀案内状 郷清三郎宛(筆者蔵) 

純造の和歌(筆者蔵)

純造の和歌(筆者蔵)

五代友厚(才助)郷純造の書翰

五代友厚関係書翰の部(一)№183郷純造の書翰目録
・明治12年(1879)7月21日 コレラ病発盈厳重用心、米価騰貴は何故か又、洋銀引下らざるは、糸値段、輸入量の不調整より、現ドル不足より生ず
・明治18年(1885)8月14日 昨日長与先より承に、帰阪以来不快の由折角御手当祈る、御地希有の大洪水一般の困難彼是苦慮程察す
・   年2月15日 19日ご光臨下されたし、客は吉原、川崎正蔵、岩谷、
日下部のつもり
・   年2月19日 22日の件吉原氏差支にて23日に延期御差支の有無※.a ・   年2月22日 明後24日申上た刻限に御待ちす吉原先生の都合もよし ・   年5月5日 洋銀売払日々相場急報下されたし、三野村方へ日々売払丈の決算は差出す様取計願
・   年5月18日 株券売払の件に付御面倒願恐入る、これは近親共分配の分にて金子入用に付売払至急に付取替依頼のものにて御地売払い凡見込みにてよろしく願う
・   年7月15日 京都用済一昨日当地着、今日伺いたし
・   年12月28日 歳末祝儀御届申上る※.b
・   年 月22日 招待の件不都合何れ吉原と相談今日の内申上る
      (以上、五代友厚関係文書目録 大阪商工会議所より)
純造が五代に出した書簡10通を含め、4.500点が.ご遺族のご厚意により、大阪商工会議所に寄贈された。その中に、純造の書翰が入っていることに、感謝申し上げます。まだ未整理の為記載出来ませんが、機会があれば発表したいと思っています。

五代友厚のことは、平成27年(2015年)NHKの朝ドラ「朝が来た」で放送されたことは記憶に新しい。簡単に彼のプロフィールを記しておこう。
天保6年~明治18年(1835~85)は薩摩(鹿児島県)藩士の出。才助と呼ばれ維新後、新政府と共に参与となる。大阪造幣寮や金銀分析所の設立等。同郷、大久保利通と深いつながりを持ち、有能な政商として活躍。
明治11年(1878)広瀬宰平と大阪株式取引所又、大阪商法会議所を設立し、その会頭に就任。常に関西財界の指導的地位にあり、大坂の父と呼ばれる。

渋沢栄一像・常盤橋公園内(渋沢辞典より)

五代友厚 関係文書目録より転写

2月19日 22日の件吉原氏差支え云々

2月19日 22日の件吉原氏差支え云々

12月28日 歳末祝儀御届云々

12月28日 歳末祝儀御届云々

参考文献

〈参考文献〉
※.明治を耕した話 渋沢秀雄著 発行所:(有)青蛙房(せいあぼう)
※.渋沢栄一を知る辞典 編者:公益財団法人 渋沢栄一記念財団 東京堂出版
※.論語と算盤 編者:公益財団法人 渋沢栄一記念財団 発行所:清興社
※.男爵 郷誠之助君伝 財団法人 郷男爵記念会 代表者:後藤国彦
※.人間・郷誠之助 後藤国彦校閲 野田禮史著 発行所:今日の問題社
※.日本の歴史・開国と攘夷 小西四郎著 発行所:中央公論新社
※.日本の歴史・明治維新 井上清著 発行所:中央公論新社
※.オランダ風説書 松方冬子著 発行所:中央公論新社
※.戦国・幕末の群像 織田信長 発行所:旺文社
※.歴史REAL 幕末維新入門 発行所:洋泉社
※.広辞苑 第四版 岩波書店
※.英雄たちの選択 選,渋沢栄一知られざる顔 "論語と算盤" を読み解く nhkbsプレミアム
※.人名事典 改訂版 編者:三省堂編修所
※.図説 日本史通覧 発行所:帝国書院
※.朝日ジュニアブック 日本の歴史 発行所:朝日新聞社
                        以上

尚、五代友厚の書翰の件で、大阪商工会議所様にはご理解を戴き、また、複写をお送り戴いた国立国会図書館様、仲介の労を下さった岐阜県立図書館様には御礼申し上げます。

渋沢栄一像・常盤橋公園内(渋沢辞典より)

大蔵省と貴族院の図 明治29年(筆者蔵)

第十六国立銀行で登場人物

【岩崎小二郎】
弘化3年~明治28年(1846~95)肥前(佐賀県)大村藩士の出。藩校で学び尊王攘夷派。新政府の民部官に出仕し、明治4年から大蔵省留学生として3年間ロンドンで学。帰国後、大蔵小丞(課長)。後、大分県知事や福岡県知事など歴任。
【外山修造】
天保13年~大正5年(1842~1916)越後(新潟県)長岡藩士の出。慶応義塾で学。後、大蔵省銀行課に入る。国立銀行設立に力を出す。
明治11年(1878)渋沢栄一の斡旋で、大阪・第三十二国立銀行(浪速銀行の前身)の総監役。後頭取となる。この間、日銀初代大阪支店長、大阪貯蓄銀行(三和銀行の全身)、商業興信所、阪神電鉄など創設。

尚、大阪(阪神)タイガーズを創立したのも外山修造で、球場の前に立派な銅像が建てられていたが、供出で撤去された。因みに、タイガースの名は、修造の幼名「寅太(とらた)」からと云う説あり。
【遠藤敬止】
嘉永3年~明治37年(1850~1904)会津(福島県)藩士の出。江戸に出て、幕府の開成所に学。戊辰戦争で会津軍として戦う。敗れて江戸で謹慎。その 後、慶応義塾で学。大蔵省に出仕。渋沢に呼ばれ、第一国立銀行に勤務後、 第七十七国立銀行の頭取、仙台商業会議所会頭、会津銀行の設立に寄与。
尚、明治23年(1890)鶴ヶ城の払い下げに募金や、私財を投げ打ち2.500円で払い下げられ、旧藩主・松平家に寄贈した。

当時の大蔵省には優秀な人材と豪傑が沢山いたようだ。

「渋沢栄一と郷純造」 完
※.お断り 大宮の郷土史・長崎奉行牧志摩守義制を中心として織本重道氏の掲載は次回、新しいタイトルで予定しています。

第十六国立銀行紙幣 壱円・五円(同行百年史より)

第十六国立銀行紙幣 壱円・五円(同行百年史より)