郷純造(ごうじゅんぞう)

幕末から明治を生きた政治家

~美濃国から江戸へ~

郷純造(ごうじゅんぞう)

郷純造についての記事

郷純造 写真(青年期) 1825年4月26日~1910年12月2日(文政8年~明治43年)。86歳没。
美濃国方懸郡黒野村(現・岐阜市黒野)に、農家を営む、六代・郷清三郎政方の三男として生まれる。
幼少名、嘉助(かすけ)。後に策一(さくいち)を名乗る。号を五三居士と称す。
少年時代より、読み書き、算術に長け、野良仕事は免除される。
漢学を御望の郷余斎(ごうよさい)に学び、剣術は大垣藩直轄道場、
下鵜飼の大野理忠(おおのりちゅう)に学ぶ(初代道場主は大野理忠太)。

策一が取得した剣術 目録三巻は次の通り。
郷純造 剣術 目録三巻
・一刀流剣術(表五段、裏五重)、
・一刀流剣術中極(五位)、
・先意流薙刀中極。以上、
何れも天保十五年(1844)皆伝。

弘化元年(1845)二十歳のとき、笠松代官になる夢を抱き江戸へ上る。
この頃、純造(じゅんぞう)と改名。
始め大垣藩主・戸田采女正の用人・正木喜左衛門の若党の草履とりとなる。
次いで仕えた、江戸町奉行で旗本の火付盗賊改方・牧志摩守義制(まきしまのかみよしのり)が、長崎奉行となり給人格で随伴する。

嘉永四年(1851)長崎奉行所でジョン万次郎の取り調べを行い、寛大な処置で故郷土佐へ帰す。
又、同五年「オランダ別段風説書」でペリー来航を予知する。
それらの親書等は全て、時の老中・阿部正弘に逐一報知していた。

文久元年(1861)~慶応元年(1865)大阪町奉行・鳥居越前守と松平勘太郎の家老を務める。
慶応二年、家老を辞して江戸に帰り御家人・園弥平の株を譲り受け、念願の幕臣(番台並びに撒兵隊)となる。
江戸城無血開城に寄与する。

~江戸幕府から明治政府へ~

激動の時代を財政で支えた人

郷純造 写真(中年期) 江戸幕府から新政府への移行で、その殆どの役人を薩摩藩・長州藩の要人で固められる中、
純造は財務面での処理能力を買われ、会計局組頭を任ぜられる。
・明治元年新政府に出仕、会計局組頭(1868)
・明治2年大蔵少丞(1869)
・明治3年大蔵権大丞(1870)
・明治5年負債取調係(1872)
・明治7年大蔵大丞(1874)
・明治10年国債局長兼大蔵卿出張中代理(1877)
・明治17年主税局長(1884)
・明治19年初代大蔵次官(1886)
・明治21年退官(1888)
※特に幕末藩債の処分に心血を注ぐ。
その間、駿府に下野していた渋沢栄一、前島密らの登用を大隈重信に薦めた。
「後の渋沢らの活躍を見ると特筆すべき事だ」(実業之日本社明治42年7月発行二十一頁参照)。

又、明治3年10月25日付大久保利通から岩倉具視への書翰には、
「郷権大丞ヲ断然免職カ転勤二ナラス候」と名指しで純造を叱責している
(大久保利通文書四・五三五、九十一頁)。
尚、純造の四男・昌作は二歳のとき三菱の創始者・岩崎弥太郎たっての願いで養子となり、岩崎豊弥と名乗る。
又、長女の幸子は二代目・川崎八右衛門へ嫁す。

隠居して「随意荘稚集録上・下」を著わし、森春涛、三条実美(よねみ)、橋本雅邦(がほう)、巌谷一六、原善三郎(三渓の養祖父)らと交わる。
宮中、特別に杖を許される。正二位、勲一等瑞宝章。男爵。

郷純造の出生地、「美濃国方懸郡黒野村」への功績。
・黒野小学校に約二千坪
・黒野多賀神社に約千五百坪
・黒野墓地に約五百坪
・小野正法寺に約四千百坪
計約八千百坪の土地を寄付する。
又、多賀神社に拝殿を、正法寺には、宅間良賀の涅槃図の大幅並びに、十三仏の画幅も寄付している。
観音堂の寄付も純造なり。
郷純造 郷男爵家御蔵品入札
大正8年11月24日、純造が収集した美術品コレクションを売却した時の新聞記事と書籍。
両国東京美術倶楽部発行の「もくろく(写真左)」。父純造の蒐集品を誠之助が売立てした。
総額百万円を超える売立は鴻池家、伊達家に次いで史上3位の取引額に達し、新聞紙面で大きく取り上げられた(写真右)。
本取引中の最大の目玉は「芸阿弥(げいあみ)の山水画」であった。
この画は当時、31.9万円で取引され、一軸の取引価格では、日本の売立市場のレコードとなった。
※現在この山水画は東京都港区の根津美術館に、国の重要文化財として所管されている。
尚、郷家に出入りしていた骨董商の本山豊実は、この売立に大変尽力され、後日、誠之助より、「抜群の働きをしてくれた」と、
その時の活躍に褒状と金杯を賜った。

【参考文献】
人間・郷誠之助 後藤国彦 校閲 野田禮史 著 昭和14年5月18日発行
男爵 郷誠之助君伝 (財)郷男爵記念会 代表者:後藤国彦 昭和18年11月30日発行



信為萬事本

郷純造書 信為萬事本信を万事の本と為す 信は全ての物事の基本である これはあらゆる物事において 信用信頼信義なくして 物事は始まらないという意である