郷家は、室町末期に美濃国方縣郡(現岐阜市)に遷住し、江(ごう)氏を名乗ったと伝えられる。江戸期には美濃国黒野(現在:岐阜市黒野)村内の頭百姓としての地位を得る。初代大蔵次官:郷純造(ごうじゅんぞう)、財界の世話役として名を馳せた郷誠之助(ごうせいのすけ)を輩出する。
郷浩(ごうひろし):明治38年(1905)~昭和62年(1987)、美濃国黒野(現:岐阜市黒野)で9代喜蔵の長男として生まれる。岐阜中学(現在の岐阜高校)を卒業後、大正14年岐阜高等農林(現在の岐阜大学農学部)に入学。昭和4年岐阜市役所に勤務。以後岐阜県庁、大阪府庁、農林省農政局勤務を経て、昭和17年中国大陸出征。終戦後、農林省に復帰するが辞職。昭和31年初代岐阜城館長となる。著書に「岐阜市に於ける夜間青物市場に関する調査」の他、「岐阜城物語」、「落城私考」、「稲葉城落城年代考」、「伝説と歴史の谷間」等がある。尚、岐阜城物語は司馬遼太郎の国盗物語の原本として、NHKの大河でドラマ化。※写真:皇太子殿下の岐阜城ご訪問(昭和32(1957)年7月17日)
郷清三郎(ごうせいざぶろう):弘化元年(1844)~大正10年(1921)、美濃国黒野(現:岐阜市黒野)で7代勝右衛門の長男として生まれる。郷純造の甥であり誠之助とは従兄である。25歳の時維新を迎える。純造が東京麹町二番町に住んでいた為、郷家では純造や誠之助のことを「番町」と呼んでいた。純造の指示で黒野に(多賀)神社や小野・正法寺に観音堂の建立を委託される。それにより神社・仏閣の見聞を広めるため全国"行脚"の旅をする。元来旅好きの清三郎には、一石二鳥の喜びであった。※写真:清三郎 新年庭にて
郷誠之助(ごうせいのすけ):慶応元年(1865)~昭和17年(1942)、美濃国黒野(現:岐阜市黒野)で純造の二男として生まれる。3歳の時江戸で維新を迎える。明治3年番町小学校に入学。19歳、東京帝国大学に入学、翌年ドイツへ留学し、哲学と経済学を学び哲学博士の学位を取得。約8年後に帰国。その後、東京電灯(現:東京電力)や王子製紙の再建に尽力。東京株式取引所(現在:東証)理事長、東京商工会議所会頭などの要職を務め、日本財界の牽引役を果たす。岐阜市黒野の多賀神社の桜の木は、誠之助が明治31年、帰郷した際、寄進したものである。※写真:誠之助 自宅にて