財界の世話役 郷誠之助(前)
慶応元年(1865)1月8日郷純造の次男として美濃国方県郡黒野村(現岐阜市黒野)に生まれる。当時大坂町奉行・旗本松平勘太郎(信敏)の家老を勤めていた父純造の元へ届けられる。そして、翌慶応2年純造は3年の家老職を辞し江戸に帰る。無論満2歳の誠之助も一緒である。江戸で御家人株の売りを待ったが、なかなか売り物が出なかった。約1年の浪人生活の後、満を持して千葉の成田山に参籠し、三十七日の断食を行った。念願かない撒兵(さっぺい)園彌平から幕臣の株が二百五十円で売りが出た。その直後、即ち慶応3年12月9日「王政復古」の大号令が渙発せられ、極端なインフレとなり、株は百五十円まで暴落した。
最後の幕臣として名を連ねたが間もなく幕府は瓦解した。(詳しくは「渋沢栄一と郷純造・中」【続く武家奉公】をご覧ください。)
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誠之助は満三歳で維新を迎える。父純造は大隈重信らの推挙で会計事務局(後の大蔵省)に出仕する。殆んどが差長土肥で占める中異例の抜擢であった。麹町へ移り誠之助は番町小学校に入学する。この頃から餓鬼大将で、暴れん坊で手に負えない少年となる。
明治10年、13歳の時、宮城県の大書記官(総務部長)・成川尚義の元へ預けられ仙台中学に学んだ。仙台中学の前身は「官立宮城英語学校」と云い、その時の同級生に、斎藤秀三郎(正則英語学校の創始者)、のちに無銭旅行の友となる松岡辰三郎また、一級下には成川義太郎や政友会で名を売った代議士・菅原傳が居た。しかし、二年で誠之助は退学となる。
この頃余りにも傍若無人の振る舞いをする誠之助に、父純造は松方正義公や、大蔵省に勤めており、アメリカに留学していた田尻稲次郎、又、相馬永胤(そうまながたね)に相談をし、アメリカへの留学を決めていた。
<純造はかつて牧志摩守(まきしまのかみ)が長崎奉行に任命されたとき、納戸役でお供をした。そこで目にしたのは、異国の人と流暢に会話をする通詞(つうじ)の姿を見て羨ましく思った。此れからは外国語を話すことが大事だと実感をした。もし我が子ができたなら英語くらいは話せる子供にしたいという、強い願望に駆られたことがあった。>
誠之助は幼少の頃から近くの英語学校に通っていた。また仙台から戻った時も牛込の山吹町で塾を開いていた中島行孝に習った。この時、塾生に川田剛の息子で川田鷹(たか)が居た。その後、純造は誠之助に家庭教師をつけ、漢文は仙台の氏家某に、英語は東京帝大の学生・小野徳太郎に学ばせた。父は大変な倹約家であったが、こと学問に金は惜しまなかった。
アメリカ留学の話は誠之助の耳に届いた。行かないと反対していた誠之助はとんでもない行動に出る。
【三人組 東海道を西へ】
明治13年、誠之助16歳の秋、突然心の修養と見聞を広めるためにと云う理由で無銭旅行に出ることを決めた。友人の高坂留彦、松岡辰三郎(※1)そして、村田式銃の発明者、村田経芳(つねよし)の倅・虎太郎の四人で画策をした。が、村田は待ち合わせ場所の新橋の角の鳥やに姿を現さなかった。
無銭旅行と云っても各自二十円(※2)ほどを持ち寄り、東海道を西へ下ることにした。無論親達には隠れてたくらんだ事であり、愚図愚図していては追手がくる。そこで一先ず新橋から汽車で川崎まで落ち延びその日はそこで泊ることにした。
村田には取り敢えず「川崎まで来るように」と云う宗の手紙を出して置いたが、まてど暮らせど村田は来ない。ここ川崎で暫く待つことにした。
誰彼とも無く「俺たちは無銭旅行に来たのだから持ち寄った金は使い切った方がよいだろう」と云う事になり、誠之助と高坂は川崎で、松岡は横浜で遊んだ。こうして三日待ったが村田はとうとう来なかった。
四日目の朝川崎を出発した。無論神奈川から先鉄道はない。この日は藤沢までの凡そ八里(約32㌔)を歩いたが、誠之助は自分が一番足の弱いのが良く解った。近くに「遊行寺・ゆぎょうじ」という寺があると聞き、一泊のお願いをしたが住職が留守をしているからと断られた。やむを得ずありったけの金を出し合い宿を取った。
翌日は小田原から早川へ掛り、そこでもお寺を見つけて厄介になろうとしたが、食うものがないと断られた。もう箱根を越す時分には銭はない、腹はへる、どう仕様もなくなった。幸いと云うか、丁度11月の初め頃で畠に薩摩芋が出来ている。そいつを引っこ抜いてガリガリかじり乍ら道中を続けた。
しかし、もう限界だった。
誠之助は着ている羽織を脱いで売り払った。母が内緒で着せてくれた手織りの銘仙だったが、二円余で売れた。宿賃は一泊十五銭~二十銭位であった。沼津から静岡へいく位の旅費は十分ある。道程は凡そ十五里(約60㌔)、誠之助は二人にいくらか渡して、「これから静岡の県令(知事)に会いに行く、君たちは後からボチボチやって来てくれ」。そう云うと俥に乗り静岡に向かった。
【静岡県令・大迫貞清】
一足先に静岡に着いた誠之助は大東館に俥を付けた。早速、大迫県令の住まいを聞き訪ねた。最初「郷誠」と書いて玄関子に面会を申し込んだが、無論何処の風来坊とも分からぬ者に県令が会ってくれる訳がない。そこで、
「郷純造倅郷誠之助」と書いて渡した。今度は会ってくれた。大迫県令に、
「実は斯く斯くの次第で親の膝元を飛び出し、天下を漫遊するつもりであったが、こと志と違い甚だ困っている。就いては、これから親父の郷里美濃へ落ち着いて、そこで親父と交渉する考えであるから、少しばかり旅費を貸して貰いたい」と申し込んだ。
先生(県令)黙って聞いたまま紙に包んで出してくれた。門を出て角を曲がったところで開けてみると、五園札が二枚入っている。小躍りしながら宿に向かうと、按配よく二人と出会い宿へ入った。しかし、県令から親父に連絡が入るのは間違いない。高坂と松岡には旅費などを渡し宿を後にした。ここに三人の無銭旅行は終焉を迎えた。だが、誠之助は一路生まれ故郷の美濃国黒野村へ向かった。
明治13年11月3日、この日は奇しくも天長節の日であった。
※1.松岡辰三郎は仙台中学の同級生。
※2.明治13年の二十円は現在の約八十万円に相当。
当時の巡査の初任給が四円、今の巡査の初任給(高校卒)が約十六万円。
(「明治人の棒給」のブログを参考にした)
無銭旅行に行くのに、全員が当時の五ヶ月分の給料二十円を持ち寄ったとは考え難い。因みに誠之助は辞書や洋書などを売って作ったという。
俥を乗り継ぎ生まれ故郷の黒野村に着いた。
「誠之助です」
「えっ!『誠』さんかい!」丁度居合わせた主で、従兄の清三郎は驚いた。無理もない乳のみ児の誠之助を背負い、生母フサ(※)と大坂町奉行家老職の、純造宅まで届けて以来の"再会”である。親戚一同大変な歓待をし、遅くまで話が弾んだ。誠之助は久々に羽を広げ、ぐっすり寝込んだ。
大迫県令から直ぐに純造の元へ注進された。
さー父の怒るまいこと烈火の如くであった。「飛んでもない奴だ親の威厳に関わることだ」。父は中島(行孝)と義兄・温の二人を美濃へ昼夜兼行で走らせた。
無理もない。この時父純造は大蔵省の国債局長(今の主税局長級)兼大蔵卿出張中代理という要職に就いていた身である。こと知れ渡れば威厳を失うだけでなく、左遷も止む無しである。
東京から着いた二人の顔面は蒼白だった。挨拶もそこそこに、「東京に帰り父に謝罪して下さい」と云って、有無を言わせず連れて帰ろうとしたが誠之助は頑として応じない。「男子一度志を立てて郷関を出たのであるから志を得るまでは帰らない」と突っぱねる。
・・・温が清三郎に助け舟求めた。
「誠さん、兎に角一度、番町(父純造の事)に会いなさい。そして又何時でもここに戻ってくればよい」。誠之助とは一回り半ほど歳の差がある清三郎は諭すように話しかけた。帰っても家の敷居は跨がないといって頑張るので、仕方がないそれでも良いからと折り合いが付き美濃を立った。
三人は津に出て外輪船に乗り込み東京に帰った。
父の元へ謝罪に行かない誠之助に益々怒りは増し、「もう貴様なんかは子でもない。親とも思うな。向後一切勘当だ‼」。
誠之助は初めて父から勘当状を突き付けられた。
※.明治32年正月、「ふさ」から清三郎への「年甫書」最下段の写真参照
無銭旅行の失敗で勘当を受けた誠之助は、グレたり、悄気たりはしなかった。元々の無銭旅行の意図は、アメリカに留学して軽薄才子になるよりは、日本人は日本独自の方法で心身を鍛錬しようと云う善意と気魂に発したものだからである。
明治13年の冬、気持ちも新たに自ら新島襄の下で学ぶことを決意した。「同志社英語学校(明治8年11月開校)」で、新島と京都府顧問の山手覚馬の二人のキリスト信徒で設立された学校である。
勘当の身であるから学費がないが、幸い義兄温が毎月七円づつ用立ててくれるという。何故かまた松岡辰三郎と志を共にするこになった。二人は一緒に下宿して自炊した。授業料は一期が一円五十銭で食糧代が一週間五十銭であり、間代は二十銭ほどであった。
新島という人は人も知る同志社の大将である。誠之助は事の一部始終を話しよろしく願いたいと頼むと、非常に篤志な人で、又、私もキリスト教に感化させようと思って色々と面倒を見てくれた。度々呼ばれて新島の家に行くと、多数の学生がキリスト教の集会をやっていた。そういうところに馴染めなく足も遠退いだ。
一方、学問の方は編入試験受けるということで、出来る学生、大西祝と尾崎弘道の弟の二人を付けてくれた。幸い上級のクラスに入った。誠之助の英語
力はずば抜けて居たという。最初のうちは大いに勉強をしたが、徐々に何か物足りなさを感じていった。
しかし、その頃の京都で学問をしていた書生の中には、何故か東京を追われて来たというような、意味合いの連中が可なり居た。その中でも、長松篤棐(あつすけ)や南部光臣(烏丸千佳之助)らは悪友で、薬売りの行商で儲けた金で良く遊んだりもした。
斯くして誠之助の京都・同志社での生活に終わりを告げて東京へ帰ったのは
明治14年、誠之助十七歳の暮れだった。
東京に戻り義兄温の家に寝泊まりし、私塾に通い只ひたすら学問に励んだ。明治16年6月、東京帝国大学法学部選科に入学する。
東京帝大にはこの頃、内田保哉や林権助と知り合いになり、お互いに行き来して、毎日顔を合わせ肉をつついては、腕をまくりよく議論をたたかわした。又、大学では穂積陳重先生に法律を学んだ。
ところが、半年後ドイツ留学が決まった。
【伊藤博文公の添書】
明治17年2月17日、二十歳の誠之助は横浜港より、大山巌陸軍卿の一行と同道に、伊藤公の添書を携えてドイツ留学の途に就いた。その添書の内容は、「この男は我儘者(わがままもの)で親父の云うことを聞かない困ったやつだが、生来多少才気もあるようだから、誰か偉い人の薫陶を受けたら、ものになるかも知れぬ。親父が是非頼むというから、面倒を見てやって貰いたい」という意味の添書だ。(もう一通、松方正義公の添書あり)
【森鴎外の独逸日記】
明治18年12月24日、『郷誠之助と相見る。ハルレに在りて経済学を修む。會(かつ)て津城とハイデルベルヒに同居したことある故、此の祭日にも亦津城を訪へるなり。快濶の少年にて、好みて撞球技を為す』。(「津城」は宮崎道三郎の号)
【留学中の概要】
・明治17年(20歳)佛国汽船メンザレー号にて横浜港を出港。7月までベルリンに滞在の後、約1ヶ年ハイデルベルヒ大学で学ぶ。
・同18年(21歳)この年の末、ハルレ・アンデルザール大学に遊び、ヘーゲルの直弟子エルドマン教授の哲学講義を聴講す。
・同19年(22歳)ハレルに在学中、1学期をライブチッヒに学び、年末ハイデルベルヒに帰る。
・同23年(26歳)専心経済学を学び、ドクトル・フォン・フィロゾフィの学位を受く。この年ブラッセルに遊ぶ。
・同24年(27歳)12月13日突如神戸港に帰国。
約8年のドイツ留学は誠之助にとって、大変有意義な歳月であった。一時は放蕩三昧の生活もしたが、心を入れ替え経済学のドクトルを取得したことは自信にもなった。
*下の写真 学友の名前
前列向かって右より
・中澤岩太・都筑馨六・田村恰興造・土方久明・松方巖
後列向かって右より
・木場貞長・井上哲次郎・末岡精一・郷誠之助・藤澤利喜太郎
・和田維四郎
誠之助16歳の春、真剣に恋した女性がいた。近所の小学校の訓導・斎藤家に通う、中村のぶ子という一つ下の女性だ。誠之助は前から出入りしており、そこで見染めたのが始まりだった。
色こそ浅黒かったが、顔だちも良く、特に眼許の涼しい愛くるしい娘で、気性もなかなかのお俠(きゃん)であった。
父親は、中村小左衛門と云い肥前国(現佐賀県)大村藩の勤王の志士であった。
二人は惹かれあい永遠の契りをした。そして、10年後には必ず結婚をしようと云う固い約束をした。が、この10年が永すぎた。
3年後、事件が起きた。
誠之助が京都の新島先生の下に遊学し、帰京して暫くの事だった。
彼女は、叔父・岩崎小二郎(※)宅で世話になり花嫁修業中の身であった。折りしも18歳になった姪・のぶ子に結婚話が持ち上がった。相手は横浜の「茂木商店」の手代で、「良縁」と話しを薦め、叔父は一方的に決めてしまった。
のぶ子は誠之助のことを打ち明ける。
激怒した叔父の小二郎は、妻・繼子(けいこ)の在所でもある佐賀へ帰してしまった。繼子に連れられてである。
悲恋を憂いたのぶ子は、誠之助に最後の長文を手紙に認め、そのご服毒し、矢鱈十八の乙女が命を絶った。
初恋は実らぬと云うが、食事も喉が通らぬほど愛し、鬱になるほど悩んだ誠之助は、のぶ子の死に大きなショックを受けた。その傷が癒えぬ間無く帝大に入学後、ドイツに旅立った。
晩年、ある側近が誠之助に「生涯独身を通したのは例の一件からですか?」と尋ねると、首を軽く横に振り、遠くに視線をやって目をつぶったそうだ。最晩年知人に頼み、のぶ子の墓を探して貰った。誠之助は「直ぐにでも墓参りに!」と思案をしたが叶わなかった。
※.岩崎小二郎は前々回の「渋沢栄一と郷純造】(続)で「十六銀行を救う」の項で登場した大蔵省の銀行課長であり、父純造は上司であった。
※.財界随想 郷誠之助 編者:帆足 計 刊行所:慶応書房
昭和14年5月3日発行
※.人間・郷誠之助 著者:野田禮史 発行所:今日の問題社
昭和14年5月18日発行
※.男爵郷誠之助君伝 編集兼発行者:財団法人郷男爵記念会
発行者:後藤国彦 印刷所:共同印刷株式会社
※.SIGNATURE(シグネチャー9月号) 日本経済のパイオニア
清濁あわせ吞む財界世話役 郷誠之助 著者:板橋守邦
昭和59年9月1日発行
※.広辞苑 第四班 岩波書店
※.日本人名辞典 三省堂 以上
*この項は中山道・加納宿67号の拙稿に加筆修正したものです。
次回は財界の世話役 郷誠之助(後)
番町会、世話役業・会社更生、渋沢栄一の事、の予定です。