渋沢栄一と郷純造(前)

2020/04/22
渋沢栄一と郷純造の生立ち

渋沢栄一;1840~1931(天保11年~昭和6年)武蔵国榛沢郡安部領血洗村(現、埼玉県深谷市血洗島)に農家の長男として生まれる。父は「市郎右衛門」、母は「栄」と言う。幼名を栄次郎、市三郎、後、篤太夫を名乗る。 郷純造:1825~1910(文政8年~明治43年)美濃国方県郡黒野村(現、岐阜市黒野仲之町)に農家の三男として生まれる。父は「清三郎政方」、母は「かね」と言う。幼名を嘉助、後、策一を名乗る。
※写真は特記無きは全て「明治を耕した話」渋沢秀雄著より転載した。
※齢の表記は満年齢。但し、没年・享年は之に非ず。
※郷純造との関係は、後編で詳しく著述の予定です。

肖像写真(渋沢栄一を知る辞典)表紙より69歳

肖像写真(渋沢栄一を知る辞典)表紙より69歳

二人の略歴・共通点

・渋沢栄一:6,7歳の頃から四書五行、日本外史をまなぶ。本を良く読む頭脳明晰な少年だった。学問は、従兄で妻千代の兄である、尾高新五郎(藍香・らんこう)に習い、剣術は、大川平兵衛より神道無念流を学んだ。19歳の時、従妹の尾高千代と結婚する。
文久元年(1861)21歳の時、親の許しを得て江戸へ出る。儒者・海保章之助塾へ入門し、神田お玉ケ池の千葉道場に入門する。幕臣、官僚(大蔵省),実業家、慈善家。爵位は正二位勲一等子爵。青淵(せいえん)と号す。
・郷純造:幼少の頃より読み書き、算術・算盤(そろばん)は抜群で、皆から一目置かれていた。12歳の時、肥桶一荷(前後二桶)を担いだと言う。田舎の一桶は大きくて重い故、周囲の大人達は驚いたそうだ。学問は隣村・御望(ごも)村の漢学者・郷余斎に学び、剣術は同、下鵜飼村の大野理忠道場で学んだ。一刀流剣術二巻、先意流薙刀一巻を皆伝。
弘化元年(1845)二十歳の時江戸へ出る。その後、お玉が池の千葉道場の門を叩く。幕臣、官僚、初代大蔵次官。爵位は正二位勲一等男爵。貴族院議員。五三居士(ごさんこじ)と号す。

※千葉道場は北辰一刀流の開祖、幕末の剣客・千葉周作が道場主で、 「玄武館」と言った。坂本龍馬は江戸へ出て千葉道場で腕を磨いた。江戸三大道場の一つ。
※郷余斎は旧幕末時代、同地の旗本・松平氏を助けた功績は大。
※大野道場の初代道場主は大野理忠太で、大垣藩戸田家の直轄道場であった。理忠太は全国武者修行に出ても負けなかったと聞き及んでいる。

郷純造の肖像画(筆者蔵) 

郷純造の肖像画(筆者蔵) 

渋沢栄一 攘夷討幕派⇒佐幕派に

渋沢は少年の頃より徐々に「水戸学」に魅力を感じていった。特に隣村・手計(てばかり)村の周りの環境がそうさせていたのだろう。正に「尊王攘夷」であり、「倒幕派」であった。しかしそれは、決して口にすることは出来ない。
そんな渋沢が何故「佐幕派」に転じたのか?そのあたりのことが「明治を耕した話」に詳しく書かれているので、掻い摘んで引用します。

『栄一の従兄で、学問の師である尾高藍香(らんこう)は、手計村の生まれで、水戸学に傾倒していた。それは当時の気骨ある青年を魅了した学風であった。藍香は藤田東湖(とうこ)や会沢正志(天狗党の主要人物)の論旨に心酔し、幕府の開港を痛烈に非難した。国は鎖(とざ)さなければならず。夷狄(いてき)は攘(はら)わなければならない』。
同志69名の目的は
『先ず、高崎城を乗っ取り、続いて横浜の外人屋敷を焼き払うのが所期の目的である』。
又、栄一は『もし藍香の悲憤慷慨(ひふんこうがい)が無かったら私も一生安閑として、血洗島の百姓で終ったかも知れない。だから私を故郷から出奔させたものは、藍香が水戸学に感化された、その余波である』。と、栄一は述懐している。

さて、何故栄一は尊王攘夷の倒幕派から一転して、真逆の佐幕派に変革したのか?それは栄一のみならず、師匠の尾高藍香を始め弟の尾高長七郎、渋沢の同郷・渋沢喜作などの同志も変わった。その理由は、大きく分けると二つあり、
一つは、尾高長七郎の説得であり、二つは、平岡円四郎との出会いである。
前者は、文久3年(1863)10月下旬。京都に滞在していた長七郎が急遽帰り、兄・藍香の自宅の二階で栄一らが集合した。その席で長七郎は、
「最早この体制で謀叛(むほん)を興しても無駄で、皆んな縛り首になるだけだ。直ぐに解散するのが賢明だ!」。強い口調で説得した。
後者は、水戸藩の出身、徳川慶喜の「用人」(ようにん)平岡円四郎との出会いである。
解りやすく言えば、水戸一橋の慶喜が将軍になったからである。

尚、この一件落着で胸をなでおろしたのは、栄一の父・市郎右衛門であった。一時はあまりに激しい栄一の政治活動に、市郎右衛門は強く詰め寄り、そして、匙(さじ)を投げた。栄一は遂に、
「父上!私を勘当してください‼」。父は断腸の思いで栄一を見放した。
父の顔は苦渋に歪み、栄一の目には一杯の涙が溢れた・・・。

普通「勘当」は親が子に対してするもので、子が親に懇願することは先ず無い。栄一は、「わが身に万が一のことが起こった時、家族や孫末代に迷惑が及ばないように」と云う配慮からだろう。

渋沢家再興のため「東の家(うち)」の三男・元助が養子で迎えられ「中の家(うち)」の通り名、市郎右衛門を名乗った。
市郎右衛門はよく働きよく人に尽した。農業だけでは金が残らない。そこで、妻・栄と二人三脚で藍を栽培して染料の元、藍玉(あいだま)を製造し、武州秩父郡や上州、信州などに納めた。これが繫盛して村、筆頭格の財産家になった。又、領主・安部家(あんべけ・5250石)の信頼は厚く、御用達として苗字帯刀を許された。

※水戸学は常陸(ひたちのくに・現、茨城県)の水戸藩で興きた学風で、祖は徳川光圀公(1628~1700)と言われている。
※.「藍の買い付けの事などを詳しく、『中田敦彦のYouTube大学』で放送しているよ!」と知人が教えてくれた。早速見てみると、実によく調べ事実に沿った講演をしている。一見の価値ありです。

フランス時代(慶応3年頃)

フランス時代(慶応3年頃)

渋沢 パリ万博へ

慶応3年(1867)一隻の大型蒸気船が横浜港を出航した。フランス皇帝ナポレオン三世から、パリ万博への招待である。
それに、若い昭武を将来の指導者とするべく長期滞在も兼ねていた。
15代将軍徳川慶喜の名代で、弟の徳川昭武(あきたけ・13歳)ほか32 名(内4人はフランス人とドイツ人)で、その中に27歳の渋沢栄一の姿があった。
他に随行したのは、外国奉行の向山一覆(かずふみ)、傳役の山高信離(のぶつら)医師の高松凌雲、又、杉浦譲のほか昭武警護役の水戸藩士7名、さらに商人として万博に参加した清水卯三郎などである。
栄一は将軍慶喜公の推挙で随行することが決まり、「御勘定格陸軍附調役」として、約1年半の渡欧中、庶務・経理を担当した。
  約一か月を要し到着したパリは、万博を契機に大変な経済発展を遂げていた。日本など想像もつかない繁栄はどうして出来たのか?それは、フリュリ・エラールと言う一人の銀行家から学ぶ事ができた。エラールは栄一に資本主義の原理を教えた。
そのシステムは、「会社や銀行は人々から集めた資金を事業に投資する。そこで得た利益を人々に還元をする。これが『資本主義』の仕組みである」と。
栄一はパリで丁髷(ちょんまげ)を切った。

フランスにて(慶応3、4年頃)

フランスにて(慶応3、4年頃)

欧州・パリ万博で三つの体験

渋沢は欧州視察やフランスで次の三つの事を体験した。
1.「国が盛んになるには『鉄】を沢山使うと良い」。
これはベルギーで製鉄所を見学した後、パリでベルギー国王レオポルド二世に謁見したときの言葉である。
2.『官』と『民』との関係の違いである。
ナポレオン三世が昭武の世話役として付けた、陸軍大佐ヴイレットと、同じく銀行家エラールとの会話から感じ取った。二人は正に対等であった。それは、日本の武士と商人の関係で、所謂(いわゆる)「官尊民卑」で、日本では考えられないことである。
3.フランスで株式・社債を実際に体験したことである。
栄一は、昭武の留学費用を捻出するため、エラールの薦めで政府公債と鉄道社債を購入したことである。「公債というものは便利なものである」。栄一は実感した。
尚、一説では滞在中栄一は、それで結構儲けたという事である。
渋沢はフランス・パリ万博から欧州視察で、「合本主義=株式会社」のシステムや思想、社会的知識を実体験として学んだことは、その後の人生に大きな教訓となった。

徳川昭武一行(渋沢栄一を知る辞典より転写)

徳川昭武一行(渋沢栄一を知る辞典より転写)

戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)

渋沢がパリにいた慶応4年(1868)1月日本では「鳥羽伏見の戦い」が勃発した。昭武一行に帰国命令が出た。
およそ1年半の戦いに勝利した薩長は、彼らが中心となり「明治新政府」が樹立された。

渋沢栄一と郷純造(前)終わり。
〈参考文献〉
※.明治を耕した話 渋沢秀雄著 発行所:(有)青蛙房(せいあぼう)
※.渋沢栄一を知る辞典 編者:公益財団法人 渋沢栄一記念財団 東京堂出版
※.論語と算盤 編者:公益財団法人 渋沢栄一記念財団 発行所:清興社
※.男爵 郷誠之助君伝 財団法人 郷男爵記念会 代表者:後藤国彦
※.広辞苑 第四版 岩波書店
※.英雄たちの選択 選,渋沢栄一知られざる顔 "論語と算盤" を読み解く nhkbsプレミアム
※.人名事典 改訂版 編者:三省堂編修所 以上

次回は郷純造との関係他をお送りします。

郷純造の肖像画(筆者蔵) 

血洗島の渋沢家、中の家(うち)