渋沢栄一と郷純造 和彦雑記(3)

2016/03/18
実業之日本社(明治42年)渋沢の記事

明治42年7月発行の実業之日本社(21頁)に、郷純造が大隈重信に渋沢栄一と前島密を推薦している記事があります。(下図参照)勇退と反響の中で、
渋沢男(爵)が始めて世に出でし当時の大元気」伯爵 大隈重信と題して記載されています。

実業之日本社 大隈重信の写真と記事

実業之日本社 大隈重信の写真と記事

男(渋沢)を余に推薦せしは郷(純造)君

大隈重信の記事を掻い摘んで記載しておきます。
『◎当時渋沢君は旧幕臣で、明治政府には出ないといって居った。我輩が大蔵省に入って人材を求めて居ると、郷純造(1825~1910)君が、洋行帰りの渋沢君を推薦してきた。
◎郷氏は中々人物を見る眼があった。氏が薦めて来た人物は、皆よかった。前島君(密男爵)もその一人である。
◎それで郷氏の推薦なら使って見ようと言って話して見ると、渋沢君は中々頑固で容易に出仕を肯(がえん)じない』。
(上記実業之日本社より)

大蔵省租税正時代の渋沢栄一  明治を耕した話より(明治3年4月)

大蔵省租税正時代の渋沢栄一 明治を耕した話より(明治3年4月)

渋沢栄一

渋沢栄一
天保11年~昭和6年(1840~1931)武蔵国榛沢(はんざわ)郡血洗島(現埼玉県深谷市)の農家の長男として生まれる。農業の傍ら藍玉(染料)や養蚕業を営む裕福な家庭で育つ。勉強好きな栄一は父・市郎右衛門から三字経の本を与えられる。7歳で従兄の尾高新五郎に四書五経を習う。

18歳で新五郎の妹千代を娶る。22歳の時江戸お玉が池の千葉道場へ入門をする。
文久3年(1863)家のことを妹のお貞に頼み、24歳の時江戸へ出る。栄一は尾高新五郎の影響を受け過激な尊王攘夷倒幕論者であった。然し江戸で平岡円四郎と言う人物に出会い改悛をする。

平岡は幕臣ながら京都で一橋慶喜の用人をしていた。のち家臣となる。
栄一も又平岡の仲立ちで慶喜の家臣となった。

慶応3年(1867)2月15日、将軍慶喜は弟の徳川昭武(14)を名代として、パリ万博へ出席させた。その随伴者として栄一も抜擢され、総勢29人と共に横浜港を出港し、パリに4月11日到着した。
第2回パリ万博は4月1日~10月1日開催され、幕府や薩摩・佐賀両藩等の出品があった。入場者数は凡そ90万人を超えたという。
栄一は昭武一行(選抜方式)とスイス~イギリスの欧州各地を公式訪問をした。
明治元年10月15日、パリを発った一行が横浜港に着いたのは11月初旬で、日本は動乱の真っ只中だった。
幕府は瓦解し元号も江戸から明治と変わっていた。栄一28歳のことだった。

その後、静岡で隠棲していた慶喜に、新政府に出るように諭されたが、下野し事業を始めた。大隈重信から大蔵省(当時民部省)へ出仕の要請を受ける。(下につづく)

東京名所20画の内第二画:大蔵省及び貴族院の図(下図参照)
       版権所有:吾妻土産名所図画
       明治29年3月20日印刷同4月1日発行
       印刷兼発行人:大阪東区安土町3丁目13番部
              古島竹次郎

           

<b>大蔵省及び貴族院の図</b>の図(273×175H)明治29年発行(筆者蔵)<b>

大蔵省及び貴族院の図の図(273×175H)明治29年発行(筆者蔵)

<b>貴族院の図(部分拡大)</b>

貴族院の図(部分拡大)

渋沢栄一の子息、秀雄氏が語る。

渋沢氏の子息秀雄(1892~1984)氏が出版された「明治を耕した話」の本にも同様の記事が載っているので紹介しておきます。
『(前略)〇それで郷氏の推薦なら使ってみようと言って話して見ると、渋沢君はなかなか頑固で容易に出仕を肯じない。〇今でこそ君は常識円満の大人であるが、当時はまだ一見壮士の如く、元気当るべからざるものがあった。〇無論両刀を帯びて、一つ間違ったら一本参ろうという権幕、家に居る時でも一刀だけは腰より離さないという勢いで 会おうといっても容易に出て来ない(後略)。』

その後大隈の粘り強い説得で、明治2年10月大蔵省へ出仕をする。
始め不満分子の吏員たちも栄一の仕事ぶりに徐々に敬意を払うようになった。しかし、明治4年、同省に大久保利通が大蔵卿として入省してから、予算の配分等で摩擦が起き、栄一や井上肇らと折り合いが悪くなり、両名は大蔵省を退官する。

それからの栄一は第一銀行の設立をはじめ数多くの事業に関わり「銀行の神様」、 「資本主義の父」と呼ばれるようになった。
正に「士魂商才」がピッタリの男であろう。

次回は「前島密と純造」の予定です。