鎌倉大仏の由来 和彦雑記(1)
「当寺は聖武皇帝の勅願に由り天平9年(737)行基菩薩の開創に係る、東国・総国分寺(あずまのくに・そうこくぶんじ)の旧跡なり。 抑当大仏は右大将頼朝公の志願に起り四条皇帝の、勅准を蒙り建長4年(1252)にこれを鋳造す。 大勧進は俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)の門弟、浄光上人鋳工は上総国(かずさのくに)矢名村の住人、大野五郎右衛門なり。 明治22年(1889)に至り638年を経たり、明応4年(1495)海涛激揚して伽藍悉(がらんことごと)く流失し、 今は只礎石を存するのみ」
※文中「建長4年(1252)大野五郎右衛門が鋳造す」とあり、平成28年(2016)の現在まで,765年を経ている。
又「明応4年(1495)海涛激揚して伽藍悉く流失し・・・」との記述があります。
※文献によれば,明応地震は,明応7年(1498)に起きた地震でマグニチュードは、M.8.2~8.4の巨大地震であり、死者は3万人を超えた。
この時、浜名湖と海が繋がり、また鎌倉の大仏殿が倒壊、流失したとされている。
※文中の送り仮名は、ひらがなに直してあります。(以下同じ)
仏身青銅総高5丈(15m)
〇周囲16間2尺(29.5m)〇面長8尺5寸(2.5m)〇横1丈8尺(5.4m)
〇白毫(びゃくごう)周囲1尺3寸(40㎝)〇眼長4尺(1.2m)
〇眉長4尺2寸(1.26m)〇耳長6尺6寸(2m)
〇鼻長竪3尺8寸(1.14m)横2尺8寸(84㎝)〇口広3尺2寸5分(97.5㎝)
〇日髻(にっけい)高8寸(24㎝)径2尺4寸(72㎝)
〇螺髪(らほつ)谷高8寸(24㎝)径1尺(30㎝)其の数830顆(つぶ)
〇膝径6間(10.8m)〇仏手大指周3尺(90㎝)余
〇白毫白銀其量3實600目(14.4㎏)〇眼晴精金也
大仏別當 清浄泉寺高徳院
※1丈=3尺、1間≒1.8m、1尺≒30㎝、1寸≒3㎝
1貫≒4㎏、1目(匁)≒4gで計算。
花袋は日本一周の「鎌倉とその附近」で長谷の大佛と題して記述している。
「前略停車場から約20町、坐像の大佛は奈良東大寺の大佛と共に我国著名の銅像であって、丈3丈5尺膝の廻り5間半、胎内に観音6體、阿弥陀三尊を安置してある。
鎌倉6代将軍宗尊親王時代即ち建長4年8月17日を以て鋳造を了したというのである。
拈華(てんか)微笑の容顔脈々と活きたように、実に巧妙の逸品であるのを以て、明治33年国宝に編入せられたのである。
境内には花卉(かき)数種あって、四時の眺望甚だ佳いのである」。
※巻頭の凡例に、大正3年4月.編者とあり、明治中期~大正初期に日本一周を旅したことが分かる。
昨年(平成27.5.17~18)友人夫妻と4人で群馬の草津温泉を訪れた。
10年程まえ以来2度目である。驚いたのは、湯畑の湯量がかなり減っていることだ。
かつての賑わいも少々影を潜めているように映った。
その昔、行基や頼朝も入泉したと言う日本屈指の名湯の隆盛を、未来永劫、願うばかりである。
前回(平成17年)訪れた時湯もみショーに参加した。その時頂いたタオルと賞状です。
大勢の見物客の中、旅の恥は掻き捨てとばかり、勇気を出して参加した。湯もみ板を返すのは意外と難しかった。今回も是非参加しようと尋ねたが、時間、場所など変わっており叶わなかった。
実はその1年半程まえ、小生頭に出来たオデキの除去手術をした。治癒を兼ねての旅行でもあった。あれから10余年お陰で元気を貰った。、今になって振り返れば良い想い出である。
朝出発まえに防災課へ状況確認をした。「火口1K以内は立ち入り禁止」とのこと。
噴火警報レベル2の白根山。遠く噴煙が見え、要所に係員が警戒にあたっていた。国道を蛇行しながら車を走らすが、余り気持ちの良い物では無い。
まだ沢山の残雪が眼に飛び込んでくる。
日本一標高の高い国道を走ると、渋峠の頂上に「日本国道最高地点」の碑が鎮座している。気圧の関係で車内のお菓子の袋が、パンパンに膨らみ弾けそうだ。
前回と同じルートで渋峠を下り、横手山や熊の湯スキー場を横目に、信州善光寺を目指した。
横手山スキー場はかつて二度ほど来たことがあり、懐かしいスキー場だ。
数え年7年に一度の「善光寺前立本尊御開帳」に参拝した。善光寺周辺は混雑する故、車は長野駅の駐車場へ入れ、タクシーで向かった。ズバリこれが良かった。
細い路地を縫うように走り、アッという間に本堂東側へ到着した。
参拝後駅に戻り一路岐阜市の自宅へ無事帰った。