谷汲山門前の富岡屋&華厳寺の溜池「旅枕」(18)

2016/11/09
ここで一言(1) 富岡屋・31代御当主大いに語る

富岡屋の屋号の由来は「大口大領(だいりょう)の生まれ故郷、会津富岡村(現・福島県大沼郡美里町)から来ている。」とは、初代・大領から数えて31代・大口和彦氏で現在の富岡屋のご主人の弁です。
金さん銀さんの来店のこと。富岡屋のうどん・そばに梶原前知事が満願成就(じょうじゅ)と命名して頂いた事などを大いに語られた。

又、江戸時代から大正時代にかけて、谷汲山参道にあった19軒のお家は、殆どが旅籠であったそうだ。
以来、満願成就やお百度参りの人々で参道は賑わってきた。

1)富岡屋の当代・大口和彦氏

1)富岡屋の当代・大口和彦氏

富岡屋 満願成就のそば・うどん

平成3年の春、さくら満開の折り金さん銀さんが訪れた。元気に満願そば・うどんを食されたとの事です。
又、平成に入り岐阜県前知事・梶原拓氏が参拝の折り、西国三十三番札所・満願成就の地に因み、『満願成就そば・うどん』と命名された。
偶然、表の大口大領の看板(3.写真参照)をご覧になり、お供の部下と一緒にお店に入って来られ、命名されたそうだ。
正に富岡屋に相応しい名付けで、人気がありお客さんが後を絶たない。

尚、この時の記念にと、ご詠歌入りの湯呑茶碗や徳利が作られた。(下図7を参照)

2)富岡屋(大口大領の看板を望む)

2)富岡屋(大口大領の看板を望む)

富岡屋前の大口大領の看板

大領は京都で作らせた十一面観音像を、故郷の富岡村へお供する事を断念し、この地谷汲へ入山した。そこで修行中の豊然上人(ぶねんしょうにん)と共に寺を建て安置した。(下図参照)

3)富岡屋前の大口大領の看板

3)富岡屋前の大口大領の看板

大口大領の木像と奥方の五輪塔

イ.「谷汲山本願大口大領信満法師木像」(大口家蔵・下図左側)
 この大領の座像は大口家のご本尊として、大切に保存されている。
 ※(法師は僧侶のこと)
ロ.「大領奥方五輪塔」(何れも大口家の写真から転写・下図右側)
 この奥方の五輪の塔は、会津の日用山・福生寺に祀られています。

なお、会津は大口大領の生まれ故郷であり、福生寺は大領の檀那寺でもあります。
今なお会津の大領の在所と、谷汲の富岡屋・大口家との交流があると聞きます。彼方から連綿と続き、気の遠くなるような歴史に、只々畏敬の念を抱くばかりです。

4)大領の木像(左)と奥方の五輪塔(右)

4)大領の木像(左)と奥方の五輪塔(右)

大口大領一千年供養・大口六ケ国長者

大領没後千年と言うと、今から凡そ200年ほど前のことでしょうか。大口六ケ国長者と記されていることから、相当な豪族であったことが窺えます。

5)尊容願主大領法師塔・一千年供養

5)尊容願主大領法師塔・一千年供養

富岡屋前に建つ谷汲山・仁王門

仁王門の二階部分は、昭和になって増築されたそうだ。確かに明治30年の絵図によると平屋建てになっています。

又、大口家の過去帳によると谷汲山・華厳寺の本堂について次のような記述があります。
文明11年(1479)2月本堂全焼スル 本尊及び毘沙門天ハ無事
文明14年(1482)本堂を建立 薩摩国谷山福本 慈眼寺住僧・道破(再興の祖)
※道破は、当山の御本尊・十一面観音菩薩のお告げに由り旧観に復したそうですが、詳しいことは解りません。

2)富岡屋(大口大領の看板を望む)

6)富岡屋前に建つ谷汲山・仁王門

富岡屋の御詠歌入り湯呑み茶碗

前梶原知事の命名記念として、沢山制作された花山天皇の御詠歌入り湯呑み茶碗。
 〝今までは親とたのみし笈摺(おいずる)を
           脱ぎておさむる美濃の谷汲”
 
  (第65代花山天皇御詠歌)・・・本稿「歌枕」(16)を御参照下さい。

※富岡屋の御当主大口氏は、谷汲観光協会の要職にもありお忙しい毎日です。お伺いの度、変わらず奥様共々ご教示くださったこと感謝致します。

7)富岡屋の御詠歌入り湯呑み茶碗

7)富岡屋の御詠歌入り湯呑み茶碗

ここで一言(2) 華厳寺の溜池・高橋正治郎

溜池は本堂横の鐘楼堂から少し北東へ進むと見えてきます。この池こそ高橋正治郎が心血を注いで造った、灌漑用の溜池「緑ケ池」の 大正新田です。

大正3年、正治郎は谷汲徳積地区に水田が無く、7戸あった農家の人は他地区へ「出作り」に出かけていた。
そんな現状を打破しようと正治郎は、開墾助成地区・59名の土地所有者をまとめ、県や国に陳情書を出すなど働きかけた。
それに由り正治郎らの熱意が功を奏し、溜池の造成や18町9反の大正新田を開発するに至った。

※以上は、高橋家17代・正敏氏及び母上様のお話しと、
頂いた「大正新田開発の組合長 高橋正治郎」の資料を参考にしました。 ※高橋正治郎のプロフィールは、10図をご覧下さい。
 

8)緑ケ池の東に建つ高橋正治郎の石像

8)緑ケ池の東に建つ高橋正治郎の石像

華厳寺の溜池・緑ケ池

溜池になる以前は大口大領の「大領屋敷」が建っていたそうだ。(大口和彦氏談)
今は綺麗に整備され、当時の面影はない。
ただ、正治郎の石像が苔生し朽ちて来ています。陽の当たる場所に移設出来れば、きっと正治郎も本望だろうと察しられる。

※因みに、現在の溜池・緑ケ池は地震による決壊予防のため、改修工事が行われ完成まじかです。
この工事もかつて正治郎がしたように、県や国に陳情し許可が下りたとの事。但し、前回との違いは受益者負担が伴ったことです。
以上は、谷汲振興事務所のお話しを参考にしました。

2)富岡屋(大口大領の看板を望む)

9)華厳寺の溜池・緑ケ池(H.28.10.6撮影)

大正新田開発の組合長 高橋正治郎

【高橋正治郎のプロフィール】
明治9年(1876)徳積村で生まれる。
明治35年(1902)岐阜県茶業連合会議員に当選し、茶業の発展に尽くす。
大正3年(1914)溜池(緑ケ池)改修工事を開墾助成出願工事の一部にするように陳情書を出す。
昭和6年(1931)谷汲耕地整理組合長に推挙され就任する。
昭和11年(1936)銅像が建てられる。(戦時中金属類供出で石像となる)
昭和15年(1940)亡くなる。

その後、谷汲図書館で正治郎の記載されている本は、下記の読本と解りました。
郷土読本・揖斐川町ゆかりの人物
発行日:平成21年2月27日
編集:揖斐川町教育委員会
発行:揖斐川町
印刷:西濃印刷株式会社

※次回は、永源寺と竹生島・宝厳寺を掲載の予定です。

10)大正新田開発の組合長 高橋正治郎

10)大正新田開発の組合長 高橋正治郎